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20160914

人びとが動き出している、人びとに続こう

人びとが、どんどん、動き出している。
 高江住民は「県議会にしかできない仕事をして欲しい」との要請を行った。
●<米軍ヘリパッド>高江の母親ら「住民の声聞いて」 沖縄県議会に要請『沖縄タイムス』2016年9月11日 13:21。
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/61641

 沖縄平和市民連絡会は県議会に「東村高江における派遣機動隊による過剰警備・大弾圧を止めさせるための陳情」を提出した。その元になった資料についての報道は以下。
●北部着陸帯警備 沖縄県警、県外機動隊の燃料や高速代負担『琉球新報』2016年9月10日 05:04
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-354233.html

座り込み現場と生活を往復しつつの訴えだ。
そして現場は、人びとの想像力に満ちている
バスが、市民車が、希望を運ぼうと参加者を待っている
次の旅に向けて、出発の準備はできたかい?
ひとりひとりが根を持つ、具体的な行動で、高江の工事を止めよう。
機動隊が道を寸断し、自衛隊のヘリが頭上を飛んだとしても。
抗議し阻止する私たちの希望に対して具体的なことは何もできないのだから。
動き出している人びとに、連なろう。
人びとに続こう。

 ダコタ・アクセス・パイプラインに関連して、デモクラシーNOW!のエイミー・グッドマンに「不法侵入」で逮捕状が出たという。原因となったのは、聖地破壊に抗議する人びとに対し民間警備員が犬をけしかける様子、噛まれて怪我をした人、ペッパースプレーを浴びせられた人などを実況したデモクラシーNOW!の放送。SNSや大手マスコミもこの記録を活用して、事態を広く伝えることに貢献したものだっただけに、報道の自由に対する弾圧だと怒りの声が上がっている。この時のフッテージは、日本語字幕付きで視聴することができる。mu-nuclear-free.comさんによる翻訳字幕作業有り難う!もちろんDN!Japanもいつも有り難う



 mu-nuclear-free.comさんによるもう一つの日本語字幕による紹介も取り上げたい。
ローレンス・オドネルのニュースコメンタリ番組「ザ・ラスト・ワード」で8月25日に放送されたもの。パイプライン問題を通して植民地主義を厳しく批判している。





人びとは、草、民衆であり、市民と呼ばれた。シニシズムに折れないし、動くことをやめない。不安になるときは、横に開き縦につながろう。縦の時間軸でつながるのに相応しい、過去を振り返るための良書を携えて、現場に向かってみて下さい。

 かつて小田実は、ベトナム反戦運動の担い手である「市民」を指して、「チョボチョボの市民」と呼んだ。小田はそうした「チョボチョボ」の存在が一人一人集まり、創意を凝らして戦争に反対するのが「市民運動」であると説いたわけだが、その「チョボチョボの市民」こそ、ほかならぬ「ふつうの市民」なのであった。ここで成立していた「ふつうの市民」と「運動」との間の連関は、いつの間にか断ち切られてしまい、右に見たような表象の転移が一部で生じているということを認識しなければならない。たしかに「市民」を名乗りつつ運動者を排除する動きは、「水俣病」の名称の廃止を訴えたり、患者たちを「ニセ患者」と呼んだ水俣の「市民」の例にとどまらず、多数の前例(ただし局地的な)があるわけだが、いまや社会全域をこのような反「運動」ポピュリズムが席巻し始めていることに注意が必要である。とりわけこの現象が加速的に進行しているインターネットの匿名掲示板などでは、運動に携わる市民を「プロ市民」と呼び、揶揄の対象として拝外意識が煽られているのである。
 こうした風潮の一端があらわれたものと私が考えるのが、2004年4月にイラクで起きた、NGO活動家の「人質」事件である。詳しくは『占領と平和』第2部第6章を参照していただきたいが、ここでメディアによって撒き散らされた「自作自演」論は、活動家と「フツー」の人々を切り離し、「そんなことやっている(「フツーでない」)人間は○○されてあたりまえだ」という排除の「自己責任論」として展開された。ここには、自立した人間の存在を理想とする啓蒙主義的な「市民」言説があるわけでもなく、ただ「フツーでない」人物像を作り上げておいて「甘え」「自己満足」といった負のレッテルを貼るためだけに「自立」が説かれている。この「自立」の語の限定と矮小化は、ネオリベラリズムの下での「自立支援」などという語法と同様の問題をはらんでいるといえるだろう。
 いまや、単になにもしないだけでなく、何か運動をしている人々を「反日分子」呼ばわりし、自らはあたかも「無色」であるかのように欺瞞して、他者の足を引っ張ることに快楽を見出すシニシストたちが、「ふつうの市民」の語の所有権を主張しているという現実がここには存在している。
道場親信『抵抗の同時代史:軍事化とネオリベラリズムに抗して』人文書院2008年、208-210ページ。

道場親信『占領と平和:<戦後>という経験』青土社2005年。
道場親信『抵抗の同時代史:軍事化とネオリベラリズムに抗して』人文書院2008年。

R.I.P.