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20161022

¡despierta! 目を醒ませ!

不当逮捕拘束が続いている。その人びとへ手紙を書いて送るように、この記事を書いてみる。
 ある筋から聞くところ、N市警察署内の代用監獄に備えられた図書のなかに、沖縄の基地問題を知るための文献が含まれているのだという。
 望まないかたちではあっても、ひとり喧騒を離れて沈思黙考する時間を、偶さか許されることがあるならば、そうした書架のなかに見つけてほしい本のことを考えた。高江で闘う人々のために、例えばネルーダの詩集を届けたい。



 パブロ・ネルーダの「きこりよめざめよ」 (Que despierte el leñador) は『大いなる歌』に収められた長編詩のひとつ。¡despierta! (目を醒ませ)という言葉は、圧政に抗して立ち上がれと人々に呼びかけるときにしばしば用いられる。プエルトリコでは、独立運動の心性において今日なお叫ばれ、¡Despierta Boriqua!と歌われる。

 「きこり」はここでは、アメリカ合州国とその人民を象徴していた。そして改めて読み直してみて(*)、流浪にあったチリの詩人による北アメリカへの呼びかけは、第二次大戦の激戦地、沖縄の戦場から復員した米兵たちへも向けられていたことに気付かされる。

 ネルーダの呼びかけは、現在から見ればアイロニーを含んで響く。兵士は帰還しても、米軍そのものは占領した沖縄に居座り続け、70余年を経た今日もなお撤退していない。

 だが占領者である米軍の手によって創立された大学で、ネルーダの呼びかけが共鳴していたのを見るのは、ひとつの希望と言えまいか。大学生たちは、かれら自身の文学を創出しながら、かれら自身の呼びかけを試みていた。『琉大文学』である。1956年3月に発行された第11号は豊川善一「サーチライト」、新川明「『有色人種』抄」、濱岡獨「息子の告訴状」、池澤聡(岡本恵徳)「『琉大文學への疑問』に答える」など時代を画した珠玉の文章が掲載され、あらゆる点で特筆すべき一冊となった。これらを紹介する目次には、有刺鉄線の挿絵が添えられており(カットは喜舎場朝貞、宮里宏とある)、そのことだけでもう、現在に引き寄せられ胸を騒がせる。そしてこの号の扉に掲げられたエピグラフが、ネルーダの「きこりよめざめよ」だった。

 「二ヶ月をへだてゝみるこの村にブルドーザーのなり止まずレーダー基地への道はのびたり」(仲原孝英)

 現在進行中のことか、との錯覚に囚われるが、このとき、仲原が詠んだ歌の情景のなかで、土地を強制接収し基地を暴力的に建設したのは、米軍そのものだった。1955年、宜野湾の伊佐浜、伊江島で後に「銃剣とブルドーザ」と言われるようになる、暴力による軍用地の強制接収が進行していた。現在の中部訓練場となる土地が提供され、キャンプ・シュワブが開設されたのは1956年のことである。そして、それまで断続的に通告による演習が繰り返されていたやんばるの森が、1957年、北部訓練場として区域提供された。

 有刺鉄線が囲む「立入禁止」の境界点で
 毒に犯された無礼者が
 ヒステリックな興奮状態のまゝ
 心地悪いまでの余韻をのこして
 あざわろうのをみた。(濱岡獨「息子の告訴状」)

 この詩が描く有様は高江の工事現場で目撃される機動隊員を彷彿とするが、濱岡が描いたのもまた、沖縄の文化を「沖縄土人」とさげすんだ当時の米兵の姿であり、詩によって濱岡は「デモクラシーの美名に覆い隠された権勢に、再び人間が屈服することの否定」を突き付けた。「10年前の悲劇を10年後にくり返すことの否定」を謳った。

  毎日を---
  舌をもつれさせ
  息をつまらせ
  ふん張った脚に
  こごめた上体をのせ
  毎日を生きている。

 そのようなキミたちとボクら。
 ブラツク・アンド・イエーロ! (新川明「ブラツク・アンド・イエロー(駐留黒人兵に献げる歌の1)」)

 新川は、米国自体がそのなかに抱えている人種の分断線を見抜き、レイシズムの被抑圧者としての共闘可能性を黒人兵に呼びかけることを詩情によって表現した。

 このような沖縄の呼びかけは、軍隊による圧制と監視の壮絶な重圧のなかで書かれた。それでもなお米軍政府による検閲をかいくぐり命脈を保つ。脈絡を欠きながら、時を経て、思わぬところに呼びかけがこだまするのを私たちは知っている。朝鮮戦争時に在日米軍に駐留し、依然として人種隔離された黒人部隊を岐阜や沖縄で経験したアイボリー・ペリー、ジェイムズ・フォアマンらは、後に米国を大きく揺るがした公民権運動の指導者たちのひとりとなった。レイシズムをめぐる支配と服従の複雑な経験が、かれらを立ち上がらせる契機のひとつであった。

 あるいは、1970年コザの路上で燃え上がった怒れる人々に宛てられたフライヤーには、黒人米兵からの支援と共闘の声がこだましていた(*)。その背景には、ヴェトナム反戦運動のなかで沖縄の労働者と米軍兵士とをつなごうと格闘した、有形無形の人びとの呼びかけがあった。

 希望の根は枯れることがない。

 『琉大文学』11号が刊行された頃、カリブ海の島々では、米国による内政干渉が猛威を振るっていた。ネルーダは新たな詩作にとりかかり、これは後に詩集『カンシオン・デ・ヘスタ』(Canción de gesta)と題されて1960年キューバから刊行される。詩集は、米国の「自治領」となったプエルトリコを擬制と厳しく批判した植民地主義批判で始まる。

 ネルーダのカリブ海への呼びかけを『抵抗の歌』(Song of Protest)と英語に翻訳したのは、ニューヨークに暮らすプエルトリカンの詩人、ミゲル・アルガリンだった。ニュヨリカン・ポエッツ・カフェの創立者のひとりとしても知られる。
 アルガリンの内に共鳴したネルーダの呼びかけが、後に彼自身の詩集『時はいま』となって結実したのだ、そう言ってしまいたい思いに、駆られている。Time's Now/ Ya es tiempo を、「目を醒ませ」「立ち上がれ」の声として、いま、聴き取っている。沖縄で「時はいま!座り込め!ここへ!」と翻訳されるべき声として。

呼びかけは、目醒めている人びとを縦に横にとつなげていく希望だ。
目醒めている人びとは、今日も明日も、座り込みに向かう。
高江に向かおう。
高江に向かうことは、辺野古に、裁判所や警察署の前に、嘉手納に、普天間に。与那国、石垣に向かうことだ。琉球弧のつらなりは自衛の名を借りた日本の軍隊配備をも拒否する。この70年を繰り返させないための拒否が、あらゆる軍隊の撤退を求めているからだ。辺野古・高江の座り込みを経験した人びとは、いまや済州島に、ハワイイ、グアムに、オーストラリアのパイン・ギャップ基地に姿を現す。

こうして、いま、ふたたび、アメリカは呼びかけられている。
世界中の有刺鉄線のゲート前から。森や海や路上から。獄中から。

めざめているか。アメリカ。


(*)翻訳者、大島博光による解説もあわせて以下の大島博光記念館のサイトで見ることができる。
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-2680.html
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-403.html

(*)吉岡攻によって撮影された文書を以下で見ることができる。沖縄市平和文化振興課『写真がとらえた1970年前後:KOZAひと・まち・こと:あなたが歴史の目撃者』沖縄市1997年。また、現物を保管していた人についてのニュースは以下。佐藤純「黒人兵「沖縄よ連携しよう」本土復帰前、渡されたビラ」『朝日新聞digital』2016年5月15日11時44分。
http://www.asahi.com/articles/ASJ5D7J7PJ5DUTIL04S.html

※[10月22日11:50]注記など整えようと思っていたら、うっかり公開設定になっていました。途中のものをお見せしてしまい済みません。加除訂正など加えています。もう少し修正してから最終としたいと思います。