skip to main | skip to sidebar

20120711

ジョン・ミッチェル核報道「沖縄最初の核ミサイル要員が沈黙を破る」

ジョン・ミッチェルさんが枯れ葉剤問題につづいて再び問題提起に満ちた記事を上梓しました。現在の沖縄で起こっているオスプレイ配備強行ともあらゆる点で相似することがら。歴史を繰り返すわけにはいかないとの思いを新たにしました。敬意を込めて無断翻訳!ご利用下さい。同時掲載のもう一つの文章もあります。

原文は以下。
Jon Mitchell, "Okinawa's First Nuclear Missile Men Break Silence," Japan Times, July 8, 2012.



(page one)


2012年7月8日(日) 
サンディ・タイムアウト
 「沖縄最初の核ミサイル要員が沈黙を破る」
ジョン・ミッチェル ジャパンタイムズへの特別寄稿 

[写真キャプション] 「思わず振り向く光景:1960年代初頭、具志川市内を牽引されるメース・ミサイル。このように開示されることは滅多になかった。提供、チャールズ・ヘドリー」


1962年10月、アメリカ合州国とソヴィエト連邦は、核戦争勃発の瀬戸際にあった。フロリダの水平線のすぐ先、カリブの共産圏キューバにクレムリンが中距離核ミサイルを配備したことを、アメリカの偵察機が発見したときのことである。 

この兵器が米国にもたらした影響は大きかった。攻撃の射程にあったワシントンD.C.も例外ではない。超大国間の2週間に及ぶ対決の火花は、ピュリッツァー賞を受賞した米国史家アーサー・シュレジンジャー・ジュニアをして「人類史上最も危険な瞬間」と言わしめた。 

[写真キャプション] 「恐ろしい秘密:1962年の航空写真が、読谷のボロ・ポイントに設置された最初のメース・ミサイル場を写している。下段:沖縄に配備されたメース・ミサイルのひとつが、オハイオ州デイトンの米空軍博物館に展示されている。提供、ラリー・ジョンストン。」

キューバ・ミサイル危機をさかのぼること6ヶ月、しかし、世界の反対側でもこれに併行してあるドラマが展開していた。米国はロシア人がキューバに配備したのとほぼ同様のミサイルを、もうひとつの小さな島、沖縄に持ち込んだのである。 

配備の事実の全容は未だ公にされていないが、今回初めて、3人の米空軍の核兵器取り扱いの先駆者たちが沈黙を破り、沖縄の秘密のミサイル、バンカー内の生活と、終末論的なレベルの軍の誤算、すなわち非同盟の中国を標的としたことなどを語った。

ジョン・ボードン、ラリー・ヘイヴマン、ビル・ホーンは三人とも第二次世界大戦初期に生まれたが、米空軍への入隊動機はそれぞれ異なる。軍の伝統に深く染められた家系出身のボードンは愛国心から入隊した。実験技師のヘイヴマンは空軍を、家族を養う収入を得るための手段として見ていた。ホーンにとって軍隊は、貧しいウェスト・ヴァージニアの生活から抜け出す道を提供するものだった。「それに制服の色も好きだったよ」と彼は語っている。

空軍入隊直後、この異なる背景を持つ3名は、第498戦略ミサイル班 ( the 498th Tactical Missile Group) に配属され、コロラド州ローリー空軍基地に送られた。そこで、自国の核兵器廠にある最新兵器を初めて目撃した。TM-76メースである。第二次大戦中、ドイツ軍が英国に雨と降らせたV-1「ドゥードゥルバグ(アリ地獄、バズ爆弾)」ロケットの後継で全長13メートルのメース・ミサイルは重さ8トン、1基50万ドルの費用をかけて製造された。ミサイル内に取り付けられた1.1メガトンの核弾頭は、広島に投下された爆弾の75倍以上の破壊力で半径5キロ圏内のものをすべて壊滅させ、20階建てのビルに相当する爆破穴を開け、その先数十年に及んで土地を放射線に晒すものだった。

「そんな恐ろしい兵器にしては、見た目はぱっとしないものだった」とホーンは想起する。「羽根付きの銀色ホットドッグみたいだと思った」。 

ローリーでは、新規採用者は7名ごとに分けられ、ミサイルのエンジン、誘導システム、核の搭載など集中的に訓練を受けた。6ヶ月の後には、新卒「ミサイラー」("missileers" ミサイル撃ち)たちは戦闘地へ派遣される準備が出来ている状態だった。それは東ドイツがベルリンの壁建設に着手したばかりのころで、行き先はヨーロッパだと予想していた。だが驚いたことに、36時間かけて島々を乗り継いだフライトの後に降り立ったのは、米軍の太平洋の要石、沖縄だった。 

第二次大戦終結より数ヶ月前の1945年春に、米軍は沖縄を占領したが、1949年の共産党による中国掌握やそれに続く朝鮮戦争の勃発よりも以前、米国は、この島の戦略的重要性を確信していたわけではなかった。1952年サンフランシスコ条約は、日本本土の連合国占領を終了させ、アメリカの沖縄占領継続を認めたものだが、これにより島は急速にアジアにおける冷戦の基軸へと転換していった。 

この点を念頭に置いて、1954年、米国は水素爆弾を搭載したF100戦闘爆撃機を太平洋の要衝、沖縄の嘉手納空軍基地に送った。これが、1972年に撤去されるまでこの島に配備された何千もの核兵器のはじまりだった(同時掲載の文章を参照されたい)。

ボードンとホーンがやって来た1961年ごろ(ヘイヴマンは1962年に駐留)、沖縄は依然として第二次大戦の傷を抱えていた。民家は米軍の使い古した木材の寄せ集めで建てられ、海岸には座礁した米軍揚陸艦の残骸が錆び付いて横たわっていた。ボードンとホーンが驚いたことは他にもあった。「ミサイル場はまだ完成していなかった」とホーンは言う。「第1発射場は地面に巨大な穴が開いていた。最初の2ヶ月は華氏100度(摂氏34度)を超える暑さのなか、民間の受注業者を手伝って発射台から地下の管制センターまでケーブルを埋設しなければならなかった」。

1962年ついに、読谷のボロ・ポイントに、沖縄で最初の核ミサイル発射場が稼働した。防水布の下に隠され夜の闇に紛れて、8基のメース・ミサイルが嘉手納空軍基地から東シナ海の向こうに狙いを定めた発射管に装填された。

ローリーからずっと一緒だった7名のチームは、訓練されたとおりの任務に着手した。「島を防衛し、民主主義国家を守り、共産主義の拡大をくい止めるため」、ホーンは皮肉に笑いながら説明した。

かれらの8時間交替制は嘉手納空軍基地のミサイル管制センターでのブリーフィングで始まる。まずその日の天気と、その時点における地政学的な空模様に関する最新情報の確認だった。続いて車でボロ・ポイントへ向かい、到着すると前日当番の護衛から最新のパスワードを受け取る。「『アップル』とか『1324』、『メリーさんのひつじ』のような簡単なものだった。だが時々、護衛が不注意で忘れてしまうこともあった。問題があって護衛犬を放したときなどに起こった」とヘイヴマンは語った。 

セキュリティ・チェックを無事通過すると、ミサイラーたちは発射場に乗り込む。兵員の待機所、ディーゼル発電機の部屋と、嘉手納とホットラインでつながった赤い電話機の備え付けられた発射室の、主として三つのエリアからなり、10メートルほど離れた場所に鎮座する8基のミサイルの周囲で任務に就いた。エンジンを点検し、誘導システムを正確に調整し、安全な手順の訓練、カウントダウンの練習をし、通知があればすぐにミサイルを発射できるようにしていた。

しかし、かれらの指先にある終末論的なパワーの割に、ミサイル発射場での生活は恐ろしく平凡なものだった。時間つぶしに、兵員たちは通信教育課程の勉強をしたり、エンドレスでピノクル[トランプのゲーム]勝負を繰り返した。基地のナイトクラブで見たショーを批評し合ったりしたが、それには(当時は)あまり知られていないバンドとしてシュープリームスの名前も上った。ミサイラーたちには、アメリカの製造業者から新製品の実地テストの依頼もあり、電子レンジがそれだった。ボードンは「ひとつしか設定がなくて、肉は靴の革みたいに、マッシュポテトは中央で四角い氷みたいになって出てきた」ことを覚えている。

ミサイル自体が問題になることは殆どなかった。核の熱風から保護するために造られたバンカー下の巨大な池は、地震や台風の衝撃を受け、地上の同僚たちの神経を逆なでした。 

だが1962年10月の出来事は、沖縄が太陽をいっぱいに浴びた休暇のような任地であって欲しいという望みを粉々に打ち砕いた。「嘉手納で、アメリカ国民よりも数日早く写真について知らされた。その瞬間から、事態は深刻になった」とホーンは語る。

ホーンの言う写真とは、1962年10月14日、キューバ西部を調査飛行中のアメリカの偵察機によって撮影されたもののことである。その画像によって史上初めて、ソヴィエト連邦が国境の外に核兵器を配備したことが明らかになった。全長22メートル、1メガトンの核弾頭が搭載された SS-4中距離ミサイルは、発射から15分でホワイトハウスに到達できた。JFKはこの知らせを自身への侮辱と捉え、フルシチョフを「非道なギャングだ」として、軍上層部に対してキューバ爆撃の計画を立案するよう要求した。
 (図:沖縄におけるメース・ミサイル発射場のマップ)


 (page 2) 
[写真キャプション] 不吉な穴:航空写真から、1960年代初頭、沖縄・恩納村にメース・ミサイル基地があったことが判る。提供、ラリー・ジョンストン。


沖縄に話を戻そう。空軍のミサイラーたちの、写真に対する反応は様々だった。「怒ったり、悲しんだり、落ち込んだり、口を閉じて黙ってしまった者もいた」、ボードンは未公刊の回想録のなかでそう書いている。「みんな起こりうる事態を受け入れたが、受け入れるやり方はそれぞれだったのだ」。

続く数日間、カリブ海とペンタゴンの間で高まった緊張のためデフコン(DEFCON)はレベル2に引き上げられた。「デフコン2とは、15分以内に核戦争の布告がある状態だ、と大佐は言っていた。デフコン1になれば5分以内にミサイル発射もある。恐怖の影がみんなの顔に浮かんだ。私も体から血の気が引いていくように感じた」と、ボードンは記憶している。 

[写真キャプション] ロケット・マン:ミサイラーのビル・ホーン、1962年嘉手納空軍基地にて。「制服の色が好きだった」。提供、ビル・ホーン。 


ヘイヴマンもボードンと同じく恐怖を感じた。「核兵器の訓練を受けていた私は、全世界が大変な危機に陥ると判っていた。アメリカの家族のことを思ったが、助けるために出来ることは何もなかった。戦争になれば届かないと知りつつ母に手紙を書いた。書けば気持ちが落ち着いた」。 

ミサイラーたちの恐怖に複雑に絡まるように、しかし、そこにはプロ的なライバル意識もあり、偵察機の撮影した目の粗いフィルムに映ったソヴィエトのミサイルと自分のメースとを引き比べもした。そして、SS-4は技術的に劣ると結論づけた。さらに、数ヶ月に及んだ厳しい訓練を実行に移す機会が、ついに到来することに興奮も覚えるような、複雑な心境を体験した。

ボードンは語る。「デフコン2に達した後、別のメカニックが1000ドルで私の当番を譲ってくれと言ってきた。給料1年分の大金だった。だが、私はにべもなく断った。私も彼と同じように発射の瞬間に立ち会いたくてたまらなかったのだ」。

この恐怖の数日間、世界の反対側でJFKとフルシチョフに制御不能な事態となれば、ボードンに機会が巡っていたかも知れなかった。キューバ人が米軍偵察機を打ち落とし、アメリカ海軍は機雷を落としてロシア潜水艦を強制浮上させた。事態の展開を聞いて、沖縄のミサイラーたちはデフコン1を覚悟していた。いまだ完全ではない恩納発射場に待機していたヘイヴマンは、事態が悪化したばあい、核弾頭をミサイルへ搭載しつつ発射ドアを防水布で覆う作業を即興的にやらなければならないと言われていた。 

一方、ボロ・ポイントでは、ホーンは48時間も地下に閉じ込められたままだった。「カウントダウンの命令を入れた厳封のキャンバス地のカバンが配られていた。そして嘉手納から発射命令を告げる赤い電話が鳴るのを待っていた。その時が来たら、上官が封を破るだろう。中には三つの別々の命令が入っていて、その後、発射する手順だった。私たちは核の時計が零時を告げる2秒手前にいたのだ」。

  だが、電話は鳴らなかった。 

10月28日、ケネディとフルシチョフは最終的に秘密の取引で妥結した。米国がキューバ侵攻しないことを約束し、トルコでNATO軍の核ロケットを撤去する代わりに、ソヴィエトはキューバから核ミサイルを撤収すると約束した。 

このことが沖縄に伝えられると、ホーンはニアミスの自動車事故に例えた。「その最中にはどれほど接近していたか判らない。道路の脇に立って見て初めて、震えが来るものなのだ」。 

[写真キャプション] デザインのやり直し:沖縄、金武の別のメース基地が1960年初頭の写真に写されている。ミサイル班のパッチは、米国防長官ロバート・マクナマラが「ミサイル」の語の使用を禁じた後、デザインをやり直した。提供、ラリー・ジョンストン。


だが、ミサイラーたちの説明を聞けば疑問が生じる。もしあの電話が鳴っていたら、それらの核兵器はどこを破壊していたのだろうか。

今日まで、3名ともみな、沖縄での経験についてあらゆる質問に喜んで答えてくれた。トイレに使った「ハニー・バケツ」の話に至るまで。だが、この話題では、彼らの口元は堅く閉ざされた。「あなたの原稿の目的のために、ミサイルは予めプログラムされていて、安全保障上の理由から行き先は知らされていなかった、と言えばいいだろう」、ボードンはそう言った。ヘイヴマンは「知らない。知っていたとしても、今日でも、喋ることが賢明だとは思えない」との返事だった。 

ホーンのみが、口に出してはならないことを語る心づもりであった。「確信は無かったが、私たちは、中国のどこかだろうと推測していた」。 

メースの2000キロという比較的短距離の射程では、ウラジオストクを除くソヴィエト連邦全域は届きそうで届かない範囲となる。この技術的データと、ホーンの推測とを考え併せれば、20世紀における米軍情報部の最大の失敗のひとつを説明できる。1959年の中ソ対立について、今日では文書によってよく知られていることだが、ロシアが中国の核ミサイル開発への協力を拒否し、共産主義の将来についてのイデオロギー論争という兄弟げんかも加わって、フルシチョフと毛が対立状態に陥っていた。しかし、ペンタゴンはこの二国が同盟状態にあると見なしていた。この誤認識がアメリカの悪名高い核戦争への青写真を基礎付けていた。「統合戦略計画」、ある政府アドヴァイザーはこれを「全てのアカに対する壮大で総合的で完全な撃破のための戦略攻撃」と呼んでいた。1962年初頭、JFKがこの計画への変更を表面的に装っていたとき、修正案は明らかに嘉手納のミサイル管制センターには伝っていなかった。 

中国とソヴィエト連邦の緊張のため、毛は、キューバ危機が着火するヨーロッパとアメリカのアルマゲドンには加わらなかっただろう可能性が高かった。しかし、沖縄のメースが上海や北京を破壊し、中立の中国で数え切れない多数の市民を殺戮していたとしたら、毛は間違いなく激しく批判しただろう。 

3人のミサイラーたちが中国に照準を定めていたことを語りたがらないのは理解できる。いっぽうで彼らは3人とも、沖縄にミサイルがあるせいで、島が標的にされていたことを認めている。ボードンは「先制攻撃あるいは反撃によって沖縄が壊滅する」可能性を心配したというし、ホーンは「沖縄の人々は人間の盾だった」と信じている。 

ヘイヴマンは、民間人の3分の1が亡くなった沖縄戦のトラウマにあった島の人々について、さらに恐ろしい予想を指摘する。ロシアか中国軍による占領というものだ。恩納のメースに弾頭を搭載する必要があると警告されたとき、彼は同時に、「ジャングル戦に備えて自分たちの装備、ヘルメットやバックパックを準備しておくよう言われた。攻撃軍に制圧されたばあい、核兵器を破壊し発射場を封鎖し、生き残るために出来ることをすることになっていた」。 

皮肉なことだが、カリブにソヴィエトのミサイルが存在することを発表した10月22日のテレビ演説で、JFKはカストロがキューバを「ラテンアメリカで最初の核戦争の標的にした」と非難した。だが今、700万人のキューバ人だけでなく、90万人の沖縄住民が、遠くの超大国のいっそう巨大な駆け引きの質草とされたことがはっきりした。大国の核兵器によって守られるのだと仮定されている人々のことについて、これら大国は関心がなかったことも明らかである。 

沖縄で過ごした日々から50年を経て、3名のアメリカのミサイラーはみな退役し、人類史上最も危険な瞬間に自分が果たしていた役割について考える時間の余裕ができた。 

3名のうち、ホーンが最も後悔している。「私たちは一人前の仕事をまかされたが、ただの子どもだった。アメリカの軍隊マシーンは、欲しいものならなんでも奪いどこへでも行くのが私たちの権利だと教え込んだ。島の人々が私たちの存在や私たちの兵器を望んでいないことに全く気がつかなかったのだ」。 

ボードンは一家の軍人の伝統を永らえたことは誇りに思っている。しかしその後の半世紀で判ったのは、キューバのかつての敵と自分自身とのあいだにある予想外の共通点だった。「私はロシアのミサイラーを憎んだものだった。しかしかれらの体験記録を読んでみると、かれらも私たちと同じ自制心と明晰な判断を働かせていたことが判った。今では、この惑星上で人生を永遠に変えたいと思う人などいなかったことが理解できる」。 

ヘイヴマンはボードンの責任感を共有し、1962年の教訓を未来の世代に受け継ごうという信念を持っている。「最近では、ニュースを見ると、イランの指導者など、核兵器をダイナマイトの棍棒程度に考えている者もいるようだ、あちこちで爆発させればいいんだ。だが自分のなかに何とも言えない気分を抱えて、ときどき泣きそうになってしまうのだ」。


 [沖縄と核爆弾:年表] 
1945 米軍は3ヶ月の戦闘の後、沖縄を占領。
1952 サンフランシスコ条約、戦後日本本土における米主導の連合国占領を終結し、米軍の沖縄統治を認める。
1954 日本の漁船、第五福竜丸、米軍による太平洋での水素爆弾の実験で放射線を浴びる。3000万人以上の抗議署名。米国防長官、沖縄に最初の核兵器を設置。
1956 公選された琉球立法院、沖縄とその他の島嶼からの核兵器の撤廃を要求。
1962 沖縄、ボロ・ポイントで最初の4基のメース核ミサイル場が稼働。
1965 米、沖縄の130キロ沖でU.S.S.タイコンデロガが水爆を紛失。
1966 伊江島住民ナイキ核ミサイルの配備を阻止。
1967 佐藤栄作首相、核兵器を持たない、造らない、持ち込まないの非核三原則。
1968 B-52米戦略爆撃機が嘉手納空軍基地の核弾頭バンカー付近に墜落。
1969 日米密約(現在も施行中と疑われる)、有事の際の日本への核再持ち込みを許容。 1971 ワシントン、沖縄からの核兵器撤去費用を東京が負担するよう求める。米は初めて島に核兵器が存在したことを公的に認めた。
1972 沖縄の施政権が日本に。


 ジョン・ミッチェルはウェールズ出身で横浜を拠点とするジャーナリスト。2011年、ヴェトナム戦争中の沖縄で米軍がエージェント・オレンジを使用したことを調査した記事がもとで、日本政府はこの件についてワシントンに開示を求めると発表、また2012年5月には2つのテレビ・ドキュメンタリの題材ともなった。