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20111230

やわらか〜くリレーする、県庁座り込みのお誘い

県庁守衛室前での評価書、提出阻止、座り込みへのお誘いです。

田中・前沖縄防衛局長は、辺野古「評価書」を提出することを凶悪犯罪にたとえてオフレコ発言をしました。
真部・旧・新沖縄防衛局長は、12月28日、未明の4時に、沖縄県の守衛室に運ぶ込むという、凶悪犯罪を実行しました。どうやら、沖縄県の環境影響条例の飛行場設置に必要な20部に足らず、16セットの評価書を持ち込んだようです。

沖縄県は運び込まれた16個の段ボールを、新年1月4日に開けるとしており、沖縄防衛局は、残りの部数も近く搬入する予定と12月29日の琉球新報は報じています。詳細は下記の琉球新報記事をお読みください。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-185717-storytopic-3.html

残りの評価書の搬入を警戒していた市民の呼びかけで、29日夜、およそ30名の有志が、県庁の裏口(守衛室前・県庁の東側)に集まりました。マスコミと私たちで60名位になっていたと思います。その人影のせいか、新たな搬入という事態はありませんでした。

集まった人たちで、意見交換を行い、当面は大晦日までは新たな搬入に、警戒を重ねようということになり、柔らかいシフトを打合せ、リレーで座り込み警戒を続けることになりました。

大晦日まで、空いている時間をやりくりして、県庁守衛室のあたりにおいで下さい。



画像は、毎年恒例、合意してない高江N4テント年越しおでんの準備中のアクシデント。今年はきんちゃく作るぜとばかりに中に詰める野菜とお餅の段取りも完璧の布陣で、いざ!と思ったら・・・の図。いま、アタシは泣き崩れています。きんちゃく不在のおでんでは納得できないという方も、県庁へお越し下さい。

20111229

防衛局が県庁に向かった!?>追記、ありがとう、そして「怒」

緊急連絡入りました。防衛局が県庁に向かったようです。マスコミが県庁に集まっているとのこと。
お近くの皆さんご参集下さい。お近くのお友達がいるかた、知らせて下さい。
家族や友達のための年末をこんな風にむちゃくちゃにするのは、度し難いよ。

<追記>数十名がとるものもうっちゃって!集合しました。議員さんも含む。
この後の続け方、当番とか、相談しているとのことです。
あらゆる応答して下さった皆さんに感謝!緊張が解けない年末年始は、いつものことだい!

でも、防衛局はマジで許せん。これも大臣の指示でしょうか。年末年始の抗議は電話がかからないからFAXとメイルとWeb書き込みかな。

仲井間知事、県庁に集まった人びとへ説明(動画)


12月28日の、辺野古環境アセス評価書、受け取りをめぐって、集まった市民に対して、県知事が直接「釈明」をし、下地環境部長が「受理」の用件を満たしていないと説明しました。NHKのニュースなどでもその映像の一部が流れましたが、これらは、集まっている市民に対して語られたものです。彼らが、集まった大勢の人びとの前に出て話さざるを得なかった、ということは、この3日間の行動の成果だと思います。知事の発言は、話し始めてからはノーカット。約10分。


下地部長の発言は、途中から終わりまで(質問されているのは、池宮城紀夫弁護士)。約3分。

20111228

「国のあり方の根幹」を崩されることへの国民の恐怖

12月26日、新報に掲載された佐藤学さんの時評から。
「最大の問題は、こうした事態が、全く国民の間での関心を引き起こさず、ほとんどの政党、政治家も、処理済みの事案としてしか、考えていない状況ではないか。そして、それは、沖縄の米軍基地が、日本にとって具体的な安全保障政策の課題ではなく、戦後日本の国の在り方の根幹をなす存在になり、その状態を死守したいという国民の意思を明示している。
 戦後日本の外交・安全保障は、全てが米国を通じてしか考えられなかったことは、これまでにもしばしば論じられてきた。民主党が「対等で緊密な日米関係」を、政権交代に際して主要政策に掲げたのは、それを正す意志が、少なくとも野党時代にはあったのだろうが、鳩山辞任で、その意志は壊滅した。
 理屈が通らない政策が、国次元では争点にすらならないまま、金を落とす懐柔策と代執行による強行策の古典的両面作戦により、押し通されようとしている。今考えれば、鳩山政権での普天間・辺野古への関心の高まりは、「国のあり方の根幹」を崩されることへの国民の恐怖がもたらしたと考えれば、現状が理解できる。」

仲井真県知事が受理する「行政手続き」無視のご都合主義

さて、仲井真県知事は、いったいどんな「釈明」ができるのか。
今回、不法に持ち込まれた「評価書」という名の7000ページの文書の内容は、このドタバタ劇の始まる月曜日に新報が報じていた。
アセス評価書 ジュゴン「複数年調査」『琉球新報』2011年12月26日。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-185624-storytopic-3.html

【東京】米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に向け、防衛省が県に提出予定の環境影響評価(アセスメント)の評価書で、同省が2009年に県側に求められていたジュゴンの複数年調査実施に対し「調査済み」と提示することが分かった。09年の準備書提出以降も沖縄防衛局がジュゴンの調査を継続していたとして、県の要望を満たしていると回答する。

この「複数年調査」は、法を無視して強硬に実施され名護市は許可をしていないが、仲井真県政が容認したものだ。1年半前のタイムスの記事から。
県、現況調査を許可 辺野古移設
知事「止める理由ない」5項目昨年に続き『沖縄タイムス』2010年6月30日。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-06-30_7665/

米軍普天間飛行場代替施設の候補地となっている名護市辺野古で沖縄防衛局が行っている「現況調査」について、県は29日までに動植物の捕獲など5項目を昨年に引き続き許可した。同日の県議会6月定例会一般質問で嘉陽宗儀氏(共産)は「許可を出しながら(辺野古案は)極めて厳しいというのは二枚舌だ」と撤回を求めたが、仲井真弘多知事は「アセスそのものは防衛省が終わっていないということなので、(手続き上)特に止める理由はない」との見解を示した。
一方、名護市の稲嶺進市長は22日の市議会で「代替施設建設が前提であるならば協力することはできない」と答弁。29日現在、名護市は許認可権がある3項目について許可していない
防衛局は現況調査について、V字形滑走路に基づく環境影響評価(アセスメント)の手続きには定められていないが、アセス手続きの事後調査や環境監視調査に生かしたいとして、2009年4月、準備書提出後に調査を開始した。防衛局は「評価書には反映させない」と説明している

「複数年調査」という一点においても、「行政手続き」の無視と傍若無人の強硬姿勢がまかり通ってきたことを、ぐずぐずと認めてきたのが、今日に続く仲井真県政である。県庁に集まったたくさんの市民の「支援」を支えに、失地を回復するせっかくのチャンスを、仲井真知事と県知事公室の執行部は、潰した。
「日本の環境アセスメント史上、最悪の事例」と厳しく批判され、裁判で係争中の、このアセスメントの問題については、生物多様性市民ネットワーク沖縄に詳しい。ぜひ参照されたい。

18時ごろの県庁の現状>GO! GO!知事室

16時過ぎ頃に、県知事と関係部局長が受理の方向を県議団に伝えたあとも、説得と抗議が続いていました。さきほど、県議団から県首脳部の受領について、参加者への説明がありました。県は「行政手続き」で押し通した模様。

このあと、参加者はきちんとした釈明を求めるため知事公室へ向かいました。知事室前ごったがえしています。京都やプチ帝都では、そろそろ抗議集会が始まっている頃でしょうか。

14時までの県庁の現状、GO! GO! 県庁

県庁は:
環境政策部長は、必要部数(20部)が揃っていない(8部不足)、という点で不備を認めている。
総務部長は届いたのだから受理と考えている。
県政内部でも、見解は足並み揃わない模様で、まだまだ検討会議中。

県議団が:
各所で交渉・折衝・説得、注入中!

そこで沖縄ピープルは:
不審なハコが持ち込まれた守衛室をガード。
4階と1階で追加の評価書が持ち込まれないようウォッチ。
★もっと沢山の人が集まる必要、大いにあり!!!★

さらに遠隔地ピープルは:
県が毅然とした態度で対峙するよう「受け取らないで拒絶しなさい」とガンガンに「応援」を。
●沖縄県知事公室 
TEL:098-866-2460
FAX:098-869-8979
e-mail:kouhou@pref.okinawa.lg.jp

ガンガンの抗議をオキボ、政府、防衛省へ。
●沖縄防衛局 098-921-8131
●防衛省03-5366-3111
●内閣官房 03-5253-2111

民主党の議員は個別にもガンガンに言ってほしい。
●民主党本部
TEL:03-3595-9988
FAX:03-3595-9961

公務員や政党の電話対応では、ただちに健康被害が出る、というばあいはWebの意見フォームがある。
●首相官邸 https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
●民主党 https://form.dpj.or.jp/contact/
●各府省への意見 https://www.e-gov.go.jp/policy/servlet/Propose

京都の人は:
★緊急抗議行動★日本政府による、辺野古・環境影響評価書の提出!にお越しやす〜。本日 17:00-18:00すぎ、京都防衛事務所前で抗議アピール
呼びかけ: 京都の有志一同 twitter @nobaseokinawa

プチ帝都の人は:
★大大拡散★最低最悪の防衛省に11時半~13時半抗議、そして18時半から首相官邸抗議大集会も決定!
楽器演奏、道具持参大歓迎! 主催、一坪反戦地主会。

守衛室前なう、今日止めないといけない理由

整然と座り込み中です。この取り組みが効果を持つよう、さらに結集を、県庁ロビーを埋め尽くしたい。五時まで。今日、どうしても止めないといけない理由を、この期に及んで、知ってからでなければ動けないという人は、末尾まで読んで。

県が毅然とした態度で対峙するよう「受け取らないで拒絶しなさい」と伝えたいならガンガンに「応援」を。
●沖縄県知事公室 
TEL:098-866-2460
FAX:098-869-8979
●「知事へのたより」「県民ご意見箱」宛先
kouhou@pref.okinawa.lg.jp

ガンガンの抗議はまだまだ政府へ。防衛省へ。
●沖縄防衛局 098-921-8131
●防衛省03-5366-3111
●内閣官房 03-5253-2111

民主党の議員さん個別にもガンガンに言ってほしい。
●民主党本部
TEL:03-3595-9988
FAX:03-3595-9961

ぬるい電話対応でただちに健康被害が出るというばあいはWebの意見フォームがある。
●首相官邸 https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
●民主党 https://form.dpj.or.jp/contact/
●各府省への意見 https://www.e-gov.go.jp/policy/servlet/Propose

なぜ、こんな座り込みを?今?と思う人の参考になる今朝の『琉球新報』記事をひとつ。
号外だとか忙しいのか、Webには上がっていない様子ですが、重要な指摘。環境アセス法の改正施行と、提出時期との関係で、評価書提出が来年1月になったばあい、国の手続き=ハードルがひとつ増えるかもしれないというアセス法専門家の分析。

11時までの県庁の現状

10時現在、国会議員3名が守衛室で「ハコ」を見張り、周囲を県議員が守り、数百人の市民が周りを囲んでいるということ。やっぱり不審物だったねー。箱には宛名もないし、後ろめたくて逃げ帰ったオキボは受領のサインももらい忘れたって。人を遣って嫌なことさせてばかりいるから、自分ではなにも出来ないザンネンな裸の王様状態。
各報道には、県の対応の危うさが映し出されている。県幹部もそろそろ後ろめたさがにじみ出てきたか?

タイムス号外
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-12-28_27905/
新報号外
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-185687-storytopic-53.html
えねっちけー(動画ニュース)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111228/t10014956831000.html

「受け取らないで拒絶しなさい」と県に伝えたいならガンガンに「応援」を以下に。
●沖縄県知事公室 TEL:098-866-2460 FAX:098-869-8979

不審物の置き去り発覚、「受け取る考え」の矢継ぎ早ニュース

不審物を次々と運び込む様子が、素早くネット報道されるNHK。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111228/k10014954661000.html
はやくも「受け取る考え」報道も。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111228/k10014955151000.html

NHKの親方日の丸的解釈なのか、又吉公室長が事前に用意してあった回答なのか。
あざといねぇ。

驚きの未明コソコソ搬入

辺野古浜通信blogより。
「今朝4時過ぎ、県庁守衛室に「こっそり」持ち込まれた評価書は16箱。沖縄防衛局森田企画部長が運び込みました。レイプ発言の田中に替わってレイプしにきた真部防衛局長は車の中に隠れそのまま立ち去りました。」
「コソドロ」って言われるよね、言われても仕方ないよね、これ。
今度は守衛さんを自分たちの身代わりにしようというのだから、コソドロの風上にも置けないか。

※ガンガンに抗議と非難と悲憤慷慨を、政府へ。防衛省へ。
沖縄防衛局 098-921-8131
防衛省03-5366-3111
内閣官房 03-5253-2111

※民主党の議員さんの携帯番号知っている人、ガンガンに起こして伝えていいと、思うな。
民主党本部 TEL:03-3595-9988 FAX:03-3595-9961

※Webの意見フォーム
首相官邸 https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
民主党 https://form.dpj.or.jp/contact/
各府省への意見 https://www.e-gov.go.jp/policy/servlet/Propose

【希望拡散】明日も>次の手はナンダ!?

辺野古浜通信が「あともう1人...来てくれたら」と願う気持ちを、しかと受けとめたい合意してないプロジェクトは、今日も希望拡散。
希望のおまじないを土人形に託して、県庁地下に埋めるとかどう!?呪詛の言葉などではなく、希望を、私たちは語りながら新しい年を迎えたいのだから。
なんつって、画像はまじないグッズでは決してなく、クリスマスのジンジャークッキーなのでした。マッドメンならぬ、マッドウーマン。(あ、このマッドメンはMADMENじゃなくてMUDのほうね。年齢がバレるんだけどね。)

平和な市民からの今日の報告と、明日の呼びかけを以下に転載します。マスコミ報道と併せて読んで下さい。自分たちが向き合うべきものから逃げて沖縄の人にやらせている、卑怯で姑息でよーばーではごーな防衛官僚たちに、譲り渡すものは何一つありませんよー。

みなさんへ
沖縄平和市民連絡会事務局
「辺野古アセス評価書」を提出させない闘い(二日目)の報告
二日目の行動にご参加下さいました皆さんお疲れさんでした。
12/27(火)の「評価書」を沖縄県に提出させない闘い二日目の報告を行います。結論から言えば、2日目も1日目と同様に県への提出をさせませんでした(2日目も勝利!)。
2日目も1日目と同様に7:30に県民広場に結集し、8時から各ゲート前に分かれて沖縄防衛局の「評価書」持ち込みのチェク体制を敷きました。1日目は平和市民関係者は直ぐに4階エレベーターホール周辺で座り込み「評価書」の主管課(環境政策課)への持ち込みをチェクしましたが二日目は一部マスコミが郵送し27日にも受理される見通しとの報道もあり、外部(ゲート)における持ち込みのチェックに重点を移し、平和市民関係者、その他の市民団体、一般市民も物品搬入ゲート(東側ゲート)を担当した。
10時過ぎに++++++と書いた車がはいてきて、チェックしたところ、載せている段ボール箱は沖縄防衛局からのものであると認めたが、その内容を明らかにしなかったので引き返してその内容を確認してから評価書でなければ搬入させるが評価書であれば搬入を止めてもらいたい旨伝えて説得したところ、説得に応じて引っ返しました。ところがその後同じ車が11時過ぎ頃にまた、同じゲートに入ってきて、同じような応答がくれ返され、物の内容は全く明らかにせずに、入り口の邪魔になっているので、移動するように告げても全く聞き入れずに、そのままで動かさないでいるように言われていると言って、誰が言っているのかとの問いに対しても答えず、++++++++かと聞くとそうではないとは言うものの後は黙りを決め込んでいる始末であったので、県の管財課も入ってもらい、県議団も登場すると言う状況になり、12時25分後にやっと引き返してもらいました。そのやりとりで明らかになったことは、この物は評価書である(助手席の男が明らかにする)。++++++++は下請けで元請けが*******であること、沖縄防衛局の担当が$$$$で彼が指示していることが明らかとなりました。
この一連の動きで明らかになったことは、マスコミで言われている日時や郵送とかの報道が全くでたらめで、県民を欺くためのリークでしかないことが明らかとなりました。
それで「県民会議」では、このような報道に混乱させられることなく、団結してより強力な態勢で12/28日を闘うことが確認されています。今回特徴的なことは、県民会議参加の県議団が対県交渉などで団結して強力な力を発揮してしていることです。そして、今日も県議会が全会派が一致して、県議会議長声明を発表させています。実にすばらしい!
<12/28(水)三日目の行動>
7時30分県民広場集合。小集会を開き1日の行動の指示を行います。一人でも多くの参加を呼びかけてください。
今年最終の行動の予定です。共に頑張ろう!

ジョン・ミッチェルの枯葉剤論文 Japan Focus ID 3659

Japan Focusサイトで公開されているジョン・ミッチェルさんの枯葉剤論文、三つ目の翻訳の試みです。
オリジナルのサイトには写真もあります。また、本論の内容は『ジャパン・タイムズ』既出の記事の、拡充版となっていますので、こちらも併せてどうぞ。


Jon Mitchell, 'Agent Orange on Okinawa: Buried Evidence?,' The Asia-Pacific Journal Vol 9, Issue 49 No 2, December 5, 2011.
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3659

ジョン・ミッチェル「沖縄のエージェント・オレンジ:埋却された証拠?」

人の多く賑わう沖縄の北谷町で、有害な枯葉剤エージェント・オレンジがドラム缶数十本ぶんも埋却された場所を、元米兵が特定した。埋却が疑われるのは、この一帯がまだ米軍のハンビー飛行場の一角であった1969年のことである。1981年に民間利用のため返還されて以後、観光地として再開発され、付近にはレストランやホテル、アパート街、人気のビーチがある。

最近、米海兵隊普天間飛行場、嘉手納基地、キャンプ・シュワブなど在沖米軍基地内でエージェント・オレンジの埋却に関する主張がいくつも出てきている(1)。本論を執筆している今日の時点で、日米両政府はこれら駐留地への環境調査を拒否している。だが、民間地で埋却の疑いが特定されたのは今回が初めてあり、独自のダイオキシン調査実施に道を拓くことになる。

20111226

【希望拡散】明日も明後日も>こういうので止められないかな。

タイムスのWeb14時過ぎの更新ニュースによれば「郵送の手続きに入った」、QABの18時過ぎのニュースは「手渡しを断念し、郵送しました」とのこと。本当にイタい人たちだと思う。「人たち」というか、「この国」。
7000ページで20冊あるらしいから、押しつけられた郵便局も局員も本当に迷惑なことだと思う。自分たちが後ろめたくてイヤで対峙したくないから、またしても沖縄の公務員に押しつけてきた。本当にみっともない。
だから、年末の忙しいときだけれど、みんなが集まって行動しないと、大変なことになっちゃう。
『やんばる東村高江の現状』ブログが「日本は何処へ向かっているのか」と問い「不適切発言」じたいは更迭されることなく実行に移されようとしていると怒ってる。『辺野古浜通信』ブログが、「拡散希望」と呼びかけている。県庁にあつまった美しい人びとの写真を見て欲しい。だから「合意してないプロジェクト」は「希望拡散」を呼びかけたい。明日も。明後日も。ココロとカラダを集めましょう、県庁へ。

以下、平和な市民の連絡を転載します。

皆さんへ
沖縄平和市民連絡会事務局
辺野古アセス評価書提出を許さない行動の継続について(12/27日以降の行動について)
12/26日は7時30分から県民広場に結集して、8時以降、午前中は平和運動センターと統一連が外の県庁入り口を警戒し、沖縄平和市民連絡会関係者が4階両エレベーターホールで警戒して、沖縄防衛局職員の入るのをチェクしてきました。また、国会議員、県議会議員約20名が県庁正面玄関でチェクしてきました。午後からは一部点検要員を残して全員が4階に上がりエレベーターホール周辺に座り込んで午後5時15分まで評価書の提出を許さない行動を行ってきました。その結果、沖縄防衛局は「評価書」の提出を沖縄県にできませんでした(完全勝利)。一部マスコミから郵送されるとの報道が流れていることもあって、「基地の県内移設に反対する県民会議」では(新里、前田両県議を入れて)午後3時頃から下地環境生活部長にあってことの真実を確かめたところ、下地部長は①日本政府・沖縄防衛局から現時点まで評価書の提出について一切何の連絡もない(一川防衛局長が沖縄県と十分連絡・調整をして手続きを進める旨の発言がされているがと再度確認をしても一切「ない」と明言した)②時間外の8時頃までも受理・受付するのかとの質問に対して、沖縄県の正規の就業時間8時30分~午後5時15分まで、受付をやるのであってそれ以外に受付することはあり得ない旨の答弁があった。
その後、「県民会議」では12/27日以降も今日と同じ態勢で行動することを確認し、午後5:15以降の集会においてもそのことを報告して、散会した。
*12/27日の行動:早朝7:30の県民広場集合、15分間集会して、8時から所定の行動を行う(今日と同じ態勢で沖縄防衛局をチェクする)。
*12/28も同じ行動とする(状況の変化についてはその場で適宜会議を開いて確認することにしています。)
今日参加した皆さんお疲れさんでした。
平和市民連絡会・市民共同行動では引き続き最大の取り組みを確認していますので、周辺にも呼びかけてご参加下さい。頑張ろう!                                             
以上 

20111225

今日の高江は虹、明日から3日間は県庁!

高江ではかたぶいall the dayでした。おかげで夕刻に美しい虹を見ました。これはとても素敵な予感。沢山の人の気持ちが県庁に集まりますよう。年末の時間をやりくりして、明日から御用納めまでの3日間、仕事をやりくりして、駆けつけて下さい。無意味な評価書が入る隙間もないくらい、人が集まるといいなぁ。

皆さんへ
沖縄平和市民連絡会事務局
 一部マスコミで12/27提出が流れ、12/26の行動の集まりが心配されています。この間の経験から国は信用できません。12/26の集まりでこの闘いの帰趨が決まると考えています。油断してはなりません。今日も午後3時から県民広場で街宣を行います。昨日は10名参加し一部はてんぶす会館前回りました。今日は普天間爆音の街宣カーも出ることになっています。3時に県民広場に結集してください。集まりによって手分けを致します。
12/26県民総行動を成功させよう! 早朝7時30分(8時ではない)県民広場集合!

20111223

コザ暴動=叛乱41年目の新資料

コザ暴動41年目の今年、当時MPだった人が撮影した記録写真が、ヒストリートに寄贈された。
昨年、暴動40年を節目として、コザ暴動を 語る会が多くの新しい体験談をひきだした。最後に12月20日をたどるヒストリー・ウォークの途中、ほんとうに偶然に向こうから歩いてきたのが、当時MP だったという人と一緒にやはり記憶をたどる道の途上のジャーナリスト、ジョン・ミッチェルさんだった。
今回、写真の提供を受けたのは、またその時とは別の人から。でも40年の節目にコザの路上で邂逅したことが、今回の縁につながったのだから、偶然というのは驚くようなギフトを私たちにもたらしてくれるものだ。沖縄市の素晴らしいミュージアム、ヒストリートでぜひ見て欲しいと思う。
米兵から見たコザ騒動 沖縄市に写真寄贈『沖縄タイムス』2011年12月18日 10時50分


「県民虫けら扱いだった」 コザ騒動きょう41年『琉球新報』2011年12月20日。














追記:ジョン・ミッチェルさんのサイトで、提供された写真のスライドショーを見ることができる。
Lawrence Gray - An American Eye on the Koza Riot, in jon mitchell

20111222

環境影響評価書ダメでしょ★県庁前歳末キャンペーンに参加を!

12月26日(月)から28日(水)つまり、来週明けから御用納めまで、環境影響評価書の勝手な押しつけ提出、出し逃げを許さーん!とみんなで県庁前に陣取ってみよう、と呼びかけがあります。ぜひ、朝から夕方まで、県庁の皆さんに協力すべく、集合してウォッチャーしましょう。なにしろ、後ろめたいからこっそり担当課長のデスクに書類を置いて逃げるようなことをする人たちだからね。
バナーやサインボードやなんかのアピールグッズもアリアリで。

ところで、こんな時はちょうど1年前の今日から、年末までのことを、改めて思い出しておくのが、なかなかいいかも。

<2010年12月のおさらい>
12月1日、酒井良介裁判長「政治が解決すべき、ちゃんと話し合いなさい」と法廷で発言。
(中略)
12月22日(水)の夜明け前の暗がりのなか、高江にすごい人数で来て、人垣をつくって穏やかな市民生活を妨害し、工事ゲート設置。

12月23日(木・休日)、米海兵隊が超低空訓練を繰り返した挙げ句に夜になってホバリングの風圧でテントを破壊。

12月24日(金)、工事を再開すると防衛局員が作業員と来高。

12月25日・26日(土・日)週末、高江はひといき。東京では「たかえをすくえ!」デモ開催。

12月27日(月)、防衛局に局長申し入れを予定。してたら、防衛局の都合で翌日に延期。なぜかと思ってたら担当者が「ホバリング被害の調査に来ました」と遅すぎる来高。「仮に米軍のヘリなら対応が必要」とか言ってた。

12月28日(火)、みんなで沖縄防衛局へ。と思ったら真部局長(当時)(つか、再び現役になったんだけど)が不在だとか言ってた。じゃぁみんなで待ってみよう、ということで防衛局内座り込み!スタート。国会議員も参加してリレートーク&リレー座り込み。

12月29日(水)、2011年度予算案にヘリパッド建設予算を盛り込んだと報道。(当時もとい現在の)真部局長の発表。

12月30日(木)、海兵隊はホバリングを否定、「通常の訓練」だったとの回答が報道された。

合意してない「2010年12月のおさらい」記事のフォロー記事みたいになったケド。

「やんばる東村高江の現状blog」2010年12月の記事は以下で。
http://takae.ti-da.net/d2010-12_3.html
http://takae.ti-da.net/d2010-12_2.html
http://takae.ti-da.net/d2010-12.html

※画像は、先日の新宿ど真ん中デモ、出発前の準備風景。都内某所にて。

20111215

ジョン・ミッチェル枯れ葉剤論文Japan Focus ID3652

ジョン・ミッチェル「沖縄のエージェント・オレンジ:新証拠」
Jon Mitchell, "Agent Orange on Okinawa: New Evidence," The Asia-Pacific Journal: Japan Focus
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3652


はじめに
2011年9月、『アジア・パシフィック・ジャーナル』誌に、1960年代から1970年代初頭の沖縄におけるエージェント・オレンジを含む米軍の枯葉剤の存在に関する筆者の研究が掲載された(1)。ヴェトナム戦の前哨基地となった時期にこの島で軍務に服した20名以上の元米兵の証言を元に、論文では、北部はやんばるのジャングルから南は那覇港まで、ダイオキシン類に汚染された化学物質の貯蔵、散布、埋却が行われた14カ所の米軍駐留地を列挙した。これほど多数の体験証言をもってしてもなお、ペンタゴンは軍用枯葉剤がこの島にあったことを否定し続けている。

9月の論文のほか筆者が『ジャパン・タイムズ』紙へ寄稿したその他の文章、また『沖縄タイムス』の記者による調査などに後押しされて、沖縄の政治家、活動家たちは日米両政府に対して、沖縄でのエージェント・オレンジ使用についてはっきりさせ、住民の不安を解消するよう求めている(2)。高まる怒りのなか、10月28日、沖縄県知事の仲井真弘多は東京でジョン・V・ルース駐日大使と面談し、この問題について調査を求めた。ルースはしっかり対応したいと答えたことが報道されている(3)。

沖縄の枯葉剤について新情報が急速に拡がりつつあることをうけて、本論文では、最近の重要な展開についてまとめることを目的としている。まず、1960年から62年の間に沖縄で枯葉剤の実験を行ったという米高官の最近の発言について確認する。つぎに今日なお沖縄に除草剤はなかったと否定する国防省の嘘を暴くことになる1966年空軍の記録を検証する。その上で、本論では、1972年以後も、キャンプ・フォスター、海兵隊普天間飛行場のほか、とくに伊江島において枯葉剤が使用されたという新しい証拠を検討する。最後に、11月4日名護市で行った記者会見の概要を示す。沖縄での枯葉剤使用について沖縄住民がその体験を初めてメディアに語った。

<写真:11月4日名護での記者会見の様子。ジョン・ミッチェル(左から三番目)(桃原淳氏撮影)>



やんばるジャングルでの実験:1960-1962年
2011年9月6日、『沖縄タイムス』紙は一面トップで、アメリカ特派員、平安名純代の記事を報じた。「北部に枯葉剤散布/立案の元米高官証言」と題されたこの記事は、1960年から62年に北部国頭村と東村付近のジャングルで枯葉剤の試験散布が行われたとまとめた(4)。

平安名に対し匿名を条件に証言したこの元軍人は「散布から24時間以内に葉が茶色く枯れ、4週間目には全て落葉した。週に1度の散布で新芽が出ないなどの効果が確認された。具体的な散布面積は覚えていない」と話した。

この元軍人によると、国防省が沖縄を試験場所として選んだ理由は主としてつぎの2点であった。まず、両者の環境が似ているためやんばるのジャングルで枯葉剤の効果が得られればヴェトナムで使えるかどうかが判る。つぎに沖縄島全土は米軍の管理下にあり、ペンタゴンは、その他の地域ならば要求される民間の厳しい健康・安全基準を回避できた。

この高官の話は、現時点で入手可能なペンタゴンの枯葉剤に関する記録と符合する。1960年代はじめ、米軍はランチハンド作戦の一部として南ヴェトナム一帯に広く[枯葉剤を:訳者注]散布する任務の遂行に、いまだ技術的な微調整を必要としていた(5)。

国防省官僚の一部は、遅々として成果の上がらない進捗状況に苛立ちを募らせており、高度に機密保持された「アジャイル計画」(Project AGILE)[アジール計画?]を隠れ蓑としてさまざまな場所で計画を進めていた(6)。「アジャイル」に関する記録には、枯葉剤の試験がプエルトリコ、タイ、米国本土で行われたことを示すものがあるが、その他地域での詳細はいまだに機密扱いのままである。情報自由法(Freedom of Information Act)に基づいて残るアジャイル計画関連の文書を公開させる試みは現時点で成功していない。

当該時期に沖縄島北部で任務に就いていた兵士が、『沖縄タイムス』の記事を立証する。1961年から62年に沖縄にいた元兵士のひとりが、やんばるでの模擬戦闘訓練(war games)の最中にジャングルで枯葉剤が使われた区画を目撃したと語っているのである。その区域で野営した彼は現在、米政府がダイオキシンに由来すると一覧表にしている数種の病に苦しんでおり、やんばるでのことが原因だと考えている。高官の話を確証するもうひとつの事実がある。今日に至るまでで唯一、退役軍人省(Department of Veterans Affairs)が、沖縄で被曝した枯葉剤を原因とする疾病に補償を支払った事例は、1961年から62年のあいだに「沖縄北部の模擬戦闘訓練で使用した」際にこの化学物質に被曝した元海兵隊トラック運転手だけなのである(7)。


沖縄と除草剤についての空軍報告書:1966年

<写真:1966年5月の文書にある写真。米空軍C-123が南ヴェトナムのハイウェイ上を低空飛行し道路脇の深いジャングルに枯葉剤を散布している。ヴェトナム戦争中、潜伏する「ヴェトコン」を追い出すことが目的だった。>



2011年10月、筆者は、全米ヴェトナム戦争退役軍人会でエージェント・オレンジ/ダイオキシン問題委員会の座長を務めたボール・サットンから国防省の文書を譲り受けた。1966年9月8日付けのこの報告書には、民間の技術者代表団によるフィリピン、台湾、沖縄18日間の旅行の詳細がまとめられていた。沖縄滞在中、かれらは那覇空軍基地、嘉手納空軍基地、米軍司令部、米軍医学研究所を訪問した。

報告書によれば、この旅の目的のひとつは「害虫駆除」と「除草剤」に関して「基本計画の見直し、安全かつ効果的な計画実施に向けた各基地への支援」とある。

「各種製品に関する文書は、会議や、訪問先のすべての基地で配布された。本活動は、害虫駆除・除草に新しく使用可能となった数種の化学薬品について各部局に情報を周知するため計画されたものである」。

文書には「沖縄の保証(certification)は1966年10月まで有効。言語の問題があるので、翻訳の必要がある」とも書かれている。

この文書について論じる前に、「枯葉剤」(herbicide)と「除草剤」(defoliant)の語について米軍での用法を明確にしておくことは重要だ。「ランチハンド作戦」について採り上げたウィリアム・バッキンガムの空軍公認の歴史書では「『除草剤』と『枯葉剤』は『ランチハンド』計画の議論のなかでは事実上、交換可能な用語として使用されていた」(9)と述べている。今日でさえ、ペンタゴンは「枯葉剤」への言及を避けるが、これは暗にダイオキシンという影を背負った語であるためだろう。たとえば、最近の電子メールのやりとりのなかで、在日米軍広報部副部長(Deputy Director of Public Affairs for United States Forces Japan)のニール・フィッシャー少佐は、エージェント・オレンジのことを繰り返し「オレンジ除草剤」と言っている。

このことを踏まえれば、1966年の報告書は、現在ペンタゴンがその存在を否定していることと真っ向から矛盾していることになる。たとえば2004年にマイヤーズ将軍は「沖縄におけるエージェント・オレンジその他の除草剤の使用・貯蔵に結びつく情報は何も記録になかった」(10)と述べた。7年間に及ぶこの否定が、沖縄でダイオキシン被曝したと主張する元兵士への援助を拒絶し続けるVAの基本路線を形成している(11)。

1966年の空軍報告書は除草剤について特記している。元兵士が、認定と補助を拒絶するVAに対して抗弁するのに充分な根拠をもたらすことになるだろう。Facebookで「エージェント・オレンジ・オキナワ」運動を組織し、この問題についてペンタゴンに情報公開を求めているジョー・シパラは言う。

「これは本当に元兵士のためになるだろう。沖縄における除草剤についてはっきりと言及した空軍の公的文書だ。記録がないと言う国防省と矛盾するものだ」。

筆者が連絡を取った多くの元兵士が、この文書を自分たちの申請書に取り入れ始め、また他の人びとにもそうするよう勧めている。1966年空軍文書の全文は次のリンクから入手可能である。http://www.jonmitchellinjapan.com/1966-air-force-visit-to-okinawa-herbicides.html

ペンタゴンとVAは、この報告書に記載された除草剤が、ダイオキシンに汚染されたランチハンド作戦のものと同じではないとの論を試みるだろう。しかし、入手可能な証拠は圧倒的に、かれらの主張の間違いを示している。1966年の旅行は、空軍のランチハンド作戦を担当した部局が計画し、米軍が東南アジアで枯葉剤使用を急激に拡大した年に実施されたのだ(12)。さらに、報告書は「除草に新しく使用可能となった数種の化学薬品」に言及しており、これは1965年に初めてヴェトナムに輸送されたエージェント・オレンジを示している。筆者がインタビューした元兵士たちは、戦場に運ばれた除草剤は沖縄でも散布されたと確信している。そのうちのひとりは、1960年代後期に那覇港で勤務した元兵士で、「秘密ではなかった。向こう(ヴェトナム)で使っていた枯葉剤とまったく同じものを自分たちも使っているのだと、みんな知っていた」と語った。

記しておくべきもうひとつの点は、文書中、「沖縄の保証」で翻訳の必要に触れた箇所である。これは民間の基地作業員が、除草剤の使用に関与していたことを物語っている。キャンプ・クエ、キャンプ・フォスター、マチナト補給廠で民間人の班が、除草作業に加わっていたのを見たと報告する複数の兵士の話が、これを端的に立証する。

これら作業員の健康への影響に関して、次に詳述することにしよう。


枯葉剤の使用:1972年以後
1965年の段階ですでに、エージェント・オレンジに含まれるダイオキシンの毒性は証明されてきたにもかかわらず、ペンタゴンと軍需産業はこの情報を繰り返し隠蔽しようと試みた。1960年代をとおして、国際メディアが南ヴェトナムで異常に高い確率で起こる出生児障害を報告したが、ホワイトハウスは共産党のプロパガンダだと退けた(15)。しかし、1969年、米国食品医薬品局は、実験用マウスの死亡や死産の原因がダイオキシンにあるとの報告を発表し、エージェント・オレンジの使用を縮小するよう勧告した(16)。国防省と製薬会社は枯葉剤使用を継続すべくあらゆる手を尽くしてこれに対峙した。ペンタゴンはなお、「比較的にみれば人体や動物への毒性は殆どない」と主張していた(17)。だが、1971年のフライトを最後に、ランチハンド作戦はその任務を終了した。1972年4月までに、米国は貯蔵されていた枯葉剤の残りを南ヴェトナムから引き揚げた(18)。

筆者がインタビューした元兵士たちの共通認識では、この同じ期間中に、沖縄に保管されていた軍用枯葉剤の大半も撤去されたという。1972年、米軍は赤帽作戦(Operation Red Hat)を実施し、保管されていた生物化学兵器を沖縄からジョンストン島へ移送した。ここに枯葉剤のドラム缶も含まれていたのではないかとの疑いが広く共有されている(19)。VA自体がこの嫌疑に根拠を与えており、2009年裁定で「赤帽作戦の記録によれば、除草剤溶剤が保管されており、後に1969年8月から1972年3月の間に処分されている」(20)と述べている。

しかし、この2ヶ月間で、詳細が明らかになってきた。枯葉剤は沖縄に存在し、散布された。これまで考えられていたよりもずっと後になっても、である。1970年代半ばまでに、米軍はダイオキシンが引き起こす健康上の危険に気付いていたことは疑いない。この時期、この化学薬品を使い続けたことは、明らかに、使用を命令し許可した基地司令官の犯罪的な黙殺行為の証拠である。さらに、事態を避けることが出来なかったペンタゴンは、その責任について重大な罪に問われることになる。

1. 伊江島:1973年
1955年、米軍が射爆場を建設するために銃剣を突きつけて島の三分の二以上を接収して以来、軍は、すでに管理下に置いたはずの土地でなお耕作しようとする地元農民との消耗戦を強いられていた(21)。地元住民が基地内に入るのを追い出す目的で、兵士は恒常的にガソリンを使って収穫物を壊滅させた。

1973年10月31日付けの『沖縄タイムス』の記事によれば、この月「米軍は枯葉剤作戦中」であり、米軍は農民の意志を挫く新しい技術を導入した。

「この度、軍はガソリンは使わず、初めて正体不明の枯葉剤を散布した。村民は耕作地を奪われ、近くの浜の汚染や健康被害に不安を抱いている。枯葉剤は演習場の周囲2000平方メートルの範囲に使用された模様だが、実際の使用範囲や、その他の区域への影響は不明である」(22)。[←タイムス記事原文で正確な表現を確認中、訳者注]

『沖縄タイムス』の記事によれば、真謝地区の住民は、米軍に対して、枯葉剤の散布への抗議と二度と使用しないよう求める要請書を提出した。

沖縄における公民権運動誕生の地、伊江島で、この化学薬品が用いられていた。深刻な暴力性が新たに明らかになったのである。米軍は枯葉剤の健康への危険性をすでに知っていたのであり、軍の行動は、保護されるべき沖縄の人びとを生物学的戦闘も同然の状態においたのである。現在、筆者は、伊江島住民から枯葉剤が散布された地域を確認中である。また、1973年の住民の要請書に対して、米軍司令部がどのように対応したのか調査するつもりである。

2. キャンプ・フォスター:1975年
1975年から1976年の間、ケイト・ゴーツ(Caethe Goetz)は、海兵隊キャンプ・フォスターに勤務した。この滞在中、基地周辺に除草剤を噴霧する兵士を目撃している。

「フェンス沿いには雑草は生えていませんでした。歩いて通り過ぎるときには、刺激臭がして、頭が痛くなったものでした。ときどき、兵士が手作業で噴霧しているのも見ました。あるとき、風が吹いて霧が自分にかかりました」(23)。

今日、ゴーツは多発性骨髄腫を病んでいる。ダイオキシンに由来するとVAが認定する14種の疾患のうちのひとつである。深刻な病にもかかわらず、ゴーツは沖縄の枯葉剤を認めさせる闘いで声を上げる活動家である。長い入院期間中に始めたブログは「スパロー・ウォーク」(Sparrow Walk)mpバナーにつづいて「沖縄で勤務した元海兵隊員として、彼女は、沖縄で従軍したすべての者たちのために、沖縄におけるエージェント・オレンジ使用を認めさせるようVAに対して声を上げている」と書かれている。

そのほかの3人の元兵士の体験談が、1970年代半ばのキャンプ・フォスターでエージェント・オレンジが使用されたというゴーツの主張を裏付けている。ある元トラック運転手は、当時、基地に何十ものドラム缶を目撃しており、もうひとりは周囲のフェンスの除草を行う噴霧チームをよく見かけたという。三人目の元兵士も、キャンプ・フォスターで枯葉剤のドラム缶を見た。雑草駆除の効果から「AOは島で是非とも必要とされていた」と彼はいう。軍の他の部署は健康への影響を恐れて保管していたものを廃棄したが、海兵隊は「処分するのはもったいない」から長く使用を続けたのだと説明した。

3. 海兵隊普天間飛行場:1975年
元海兵隊の伍長勤務上等兵(Lance Corporal)、カルロス・ギャレイは、1974年から75年に海兵隊普天間飛行場で基地補給部門に勤務した。ギャレイによると、枯葉剤は備え付け品として保管されており、化学薬品入りのドラム缶12缶の処分の要望書類をタイプした。

「処分の方法はまだ決定待ちでした。有毒物質のため、DOD(国務省)のみがその運搬先や処分について決定出来たのです。私はDODに文書を送ったし、手順だったのでHQMC(海兵隊司令部)へも何度も情報提供しました。しかし返答はありませんでした」。

「他にもいくつかの小隊で、手持ちのドラム缶などがありましたが、DODの回答は遅れ、待つようにと言われていました」。

ペンタゴンがギャレイの要求に回答できなかったことは、1971年、ランチハンド作戦終結時に残存したおおよそ7千5000万リットルの枯葉剤の処分方法でかれらが困惑していた事態を反映している。公認されたバッキンガムの空軍史には、統制が取れない政府が、6年に及んで、次から次へとますます絶望的になっていく解決案を乱発したと、「深い井戸に投入、土壌で生分解、核実験用に掘られた穴に埋却、汚泥にして埋却、微生物を用いた影響の縮減、高温焼却」(25)などが記されている。最終的に、ミシシッピ州ガルフポートの住民がエージェント・オレンジの保有に抗議した後、1977年7月から9月にオランダ船籍のごみ焼却船「ヴァルカヌス」で洋上焼却された。

加えて、ギャレイの話は、基地の司令官たちが、命令系統のなかで、これらの化学薬品が健康に与える危険を伝達することに失敗していたという恐るべき事態を明らかにしている。

「ドラム缶は一カ所に集めておくようにと指示されました。上司の言い方はこうでした。『おまえが植物でなけりゃ、死なないよ』。それで、ドラム缶を取り扱う特別なフォークリフトの到着を待たなかったのです。その結果、移動の途中でドラム缶からこぼれた液体を浴びてしまった。エージェント・オレンジが腕と足とブーツにかかったのです」。

現在、ギャレイは、ケイト・ゴーツ同様、このときの被曝を原因とする症状に悩まされている。しかし、彼の申請はVAから却下され続けているのだ。


名護住民の体験:2011年11月4日
11月のはじめに、筆者は名護市で記者会見を開き、日本語メディアに対して調査の進行状況を報告し、同時に米軍の枯葉剤使用について住民から情報を集めることにした(26)。沖縄生物多様性ネットワーク(27)による周知の協力のほか、『沖縄タイムス』紙が1966年空軍文書を会見の日の朝刊で報道したことも手伝って、集会には多くの参加者があった。50名以上の地元の人びとが来場し(芥川賞作家の目取真俊氏の姿もあった(28))、沖縄防衛局の担当者、県議会議員の渡嘉敷喜代子、名護市議会議員も参加した。

9月に名護市は、エージェント・オレンジ使用について公的な調査を求める決議を行った沖縄最初の市町村となっていた。名護市議の不安が集まったのは、市内の海兵隊駐屯地キャンプ・シュワブ、すなわち、1970年から71年に元兵士のスコット・パートンが大量のエージェント・オレンが貯蔵され噴霧されていたのを目撃した場所である。

パートンによると:
「エージェント・オレンジの何十ものドラム缶が、多くが立ち入りを禁止された大きな亜鉛メッキ加工の倉庫に貯蔵されていた。なかにはオレンジの1本線が描かれたドラム缶があった。ほかは2本のオレンジ色の線だった。...なかには漏れている缶もあった。それで軍は、パレットの周囲に1フィート半(45センチメートル)の深さの溝を掘って、漏れ出した液体を溜めていた」。

パートンの主張は、基地内で枯葉剤の使用区域を目撃したことがあるという別の海兵隊員の同様の話で裏付けられた(29)。

会見で、この2人の元兵士の話を要約した後、地元住民にも体験談を語ってもらうようお願いした。住民の多くは特に、パートンの話で枯葉剤が用いられた場所が近くの湾に流れ込む用水路の土手だったことに戸惑いを隠せなかった。名護市議の大城敬人は、その場所を特定できたと考えている。それはかつて貝がよく捕れると親しまれた浜から近い場所だった。

名護住民の比嘉Sさんは、1970年代以前は、近くの浜の岩や海岸線は藻や海草で覆われていたのに、だんだんと生えてこなくなり、岩は漂白されたようになって一帯には生き物の気配もなくなってしまったと話した。

次に話してくれたのは島袋Fさんである。キャンプ・シュワブのカンノ兵舎(Camp Schwab’s Kanno barracks)で1962年から1972年まで家政婦として働いていた彼女は、備え付けの除草剤を噴霧していた沖縄人の軍雇用員の話を覚えている。そのうち何人かは、若いうちに癌で亡くなった。彼女の不安を、別の住民も繰り返した。この地区では何年ものあいだ、白血病にかかる人が非常に多いという(30)。

島袋もまた、比嘉と同様に海の生き物が汚染されているのではないかとの不安を語った。彼女は基地の近くの海で取れた貝を食べた後で亡くなった人たちのことを思い出した。「そのうちのひとりは、[シュワブ近くの]あたりで採れた貝は食べるなよと言い遺して亡くなった」。別の住民は、駐屯地の近くで採れたハマグリから黒いものが出てきた、米軍がエージェント・オレンジのことを「茶褐色で油のような液体で水に溶けない」と表現していたため怖くなったと語った(31)。

住民の不安は、市の北にひろがるジャングルにも向けられている。伊波Y[伊波義安]は、東村、すなわち、ちかごろ米政府高官が1960年から62年に枯葉剤の試験散布をしたと語った一帯の付近で、最近撮影された写真を示した。写真の土地は1990年代初期まで米軍に提供されていたが、返還されて20年経った今も、植物は生えてこないままである。

伊波は、沖縄ではどんな空き地でも4-5年経てば雑草が再び生い茂るもので、これは普通ではないと感じている。さらに、この一帯は2007年からメディアがダイオキシン汚染の疑いを報道しており、トカゲ、カメ、イノシシなどの奇形が報告されているとの懸念を付け加えた(32)。

記者会見の終盤で、中年の男性が近づいて来た。彼の父親は、1972年の日本への施政権返還前に、米軍から譲り受けた枯葉剤を使っていたと話した。その男性によると、枯葉剤は「油性で薄く、ガソリンとまぜるとうすい茶色だった。道ばたに噴霧していたのを見たが、効果はすごかった」という。

この男性の記憶によれば、数日のうちに「雑草は枯れてしまった。噴霧した液がかかった部分は、木の葉も黒くなった。この薬剤のせいで道の脇の大木の葉も落ちてしまった」。

彼も父親も噴霧の影響による病状はないが、薬品はエージェント・オレンジだったのではないかと疑っている。当時沖縄で使えた日本製の除草剤は水溶性で大木を枯らすような効果はなかったのだという。


結論:緊急の環境調査の必要
最近になって次々と出てくる沖縄の軍用枯葉剤に関する新情報は、警告を発するに充分な根拠となる。1970年代半ばに至ってもこれらの化学薬品が使用されていたという証拠、そして、沖縄の民間人の体験証言を考えれば、筆者が2011年9月の論文で指摘した以上に、人体と環境が支払わされる犠牲はいっそう深刻なものであろう。

エージェント・オレンジが貯蔵されていたと考えられる場所で環境調査が実施されなければ、沖縄住民や現在駐留する米軍兵士の不安を鎮めることは不可能だろう。筆者がインタビューしたダイオキシンに冒された元兵士たちは、エージェント・オレンジの健康上の危険性を充分に知り、正確な場所を特定するため無条件の協力を申し出ている。

南ヴェトナムの米軍基地跡地でダイオキシンのホットスポットを特定する作業を担当した科学者の座長をつとめるウェイン・ドゥウェニチェクは、調査によって、沖縄における枯葉剤の存在を確証できるか否定できるか、いずれかはっきりするだろうと語る。

「調査結果とダイオキシン類の異性体を調べれば、汚染がエージェント・オレンジによるものなのかどうか断定出来るだろう。エージェント・オレンジはダイオキシン類のうち、2,3,7,8-TCDDという特定のものだ。高い割合でこの化合物が見つかれば汚染はエージェント・オレンジによるものであることは疑いない」。

現時点で、ふたつの障壁が実施の阻害要因となっている。第1に、沖縄にはダイオキシンの試験設備がなく、1サンプルあたり1000ドルという金額は当局からの資金援助なしではあまりに高額である。

第2に、ペンタゴンと沖縄防衛局がこのような調査に消極的なことも障害となっている。地元市町村の調査を認める1973年の日米合同委員会合意があるにもかかわらず、11月11日、沖縄防衛局が名護市がキャンプ・シュワブの土壌調査を求めた際に拒否したのはその一例と言える。

ウェイン・ドゥウェニチェクいわく、このやっかいな態度は結局のところ当局に跳ね返るのだ。

「もし米国が落着を望んであいまいな言い逃れをやめれば、小規模のサンプル試験は認めるだろう。そうなったら要注意だ。かれらはなにを隠そうとしているのか?」

かつて、東京とワシントンは、保身に走り嵐をやり過ごそうとした。だが最近の展開を見れば、そのような選択肢は許されないだろう。沖縄の指導者たちは日米合作のエージェント・オレンジ隠蔽を、海兵隊普天間基地の辺野古への移設問題をめぐる不正義に結びつけて見ている。これから先の数週間、東京とワシントンが辺野古への新基地受入を迫ろうと沖縄への圧力を強めれば、同様に、枯葉剤調査を認めよとの圧力もまた強まることになるだろう。枯れ葉剤が半世紀以上にわたってこの島の土地を汚染してきたと、いまや多くの人びとが確信しているのである。


沖縄におけるエージェント・オレンジ使用に関して、元兵士と沖縄の住民の皆さんからの情報をお待ちしています。連絡はジョン・ミッチェルまで。
jon.w.mitchell@gmail.com
めまぐるしく展開するこの話題について、最新の状況は定期的に更新する次のサイトで確認されたい。
http://www.jonmitchellinjapan.com/agent-orange-on-okinawa.html
指導的役割を果たすオンライン・コミュニティ「エージェント・オレンジ・オキナワ」はジョー・シパラのFacebookにある。
http://www.facebook.com/pages/Agent-Orange-Okinawa/205895316098692

ジョン・ミッチェルはウェールズ生まれ、横浜を拠点に執筆活動中。ニューヨーク、カーティス・ブラウン社を代理人とする。沖縄の社会問題について広く日米の出版物で採り上げている。主たる著作については以下で見ることが出来る。 http://www.jonmitchellinjapan.com/
現在、東京工業大学で教鞭を執っている。

ポール・サットン、河村雅美、スナオ、O・N、カルロス・ギャレイ、ミシェル・ギャッツ、吉川秀樹の各位から、本論の執筆にあたって支援と助言をいただきました。記して感謝します。

出典表記:Jon Mitchell, 'Agent Orange on Okinawa - New Evidence,' The Asia-Pacific Journal Vol 9, Issue 48 No 1, November 28, 2011.


注記

(1) Jon Mitchell, “Military defoliants on Okinawa: Agent Orange”, The Asia-Pacific Journal, September 12, 2011.

(2)2011年10月、野田総理大臣は沖縄に閣僚を派遣し米海兵隊普天間飛行場の移設を辺野古への基地拡張にする道筋を付けようとした。この会談で、エージェント・オレンジ問題は地元の首長たちが東京[日本政府]に対して発した主たる苦情のひとつとなっていた。10月18日、北谷町、嘉手納町、沖縄市の3首長は玄葉光一郎外相と面談しこの問題に関して広域調査を求めた(日本語での詳細は以下を参照)[翻訳者注a]。「「公務中」理由公表を 軍転協・日米要請書」『琉球新報』2011年10月19日。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-182970-storytopic-111.html

2011年10月21日、北谷町長は斎藤勁官房副長官と面会し、枯葉剤の埋却について再確認を求めた。(日本語での詳細は以下を参照)[訳者注b]
http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20111023rky00m010010000c.html

北谷町で何十缶ものドラム缶入りエージェント・オレンジが埋却されたという証言については、以下を参照。 Jon Mithcell, "Agent Orange buried on Okinawa, vet says: Ex-serviceman claims U.S. used, dumped Vietnam War defoliant," Japan Times, August 3, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/nn20110813a1.html

(3)「軍転協「辺野古は不可能」外相・米大使らに訴え」『沖縄タイムス』2011年10月29日。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-10-29_25350/

(4)日本文は以下を参照[訳者注c]。「元高官証言『沖縄で枯れ葉剤散布』」『沖縄タイムス』2011年9月6日。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-09-06_23051/

(5)William A. Buckingham, Operation Ranch Hand - The air force and herbicides in Southeast Asia, 1961-1971, Office of Air Force History, Washington D.C., 1982, 16.

(6)アジャイル計画のうち、機密解除された文書のいくつかを次で確認できる。[訳者注d]
http://www.nal.usda.gov/speccoll/findaids/agentorange/text/00340.pdf

(7)1998年VA裁定の全文は以下で読むことが出来る。
http://www.va.gov/vetapp98/files1/9800877.txt

(8)このドキュメントのPDFデータは以下で取得可能。
http://www.jonmitchellinjapan.com/1966-air-force-visit-to-okinawa-herbicides.html

(9)Buckingham, 196.

(10)Quoted in “Agent Orange was likely used in Okinawa: U.S. vet board”, Kyodo News Service, July 8, 2007.
[訳者注e]

(11)VAはしばしばこの2009年の決定文書に沿って形式的な却下を行っている。「委員会は、元米兵が沖縄のいずれの場所においても除草剤に被曝したことを確証できない。沖縄において除草剤の事実上の証拠はない」。(この却下文の全文は以下で見ることができる。)
http://www.va.gov/vetapp09/files1/0903931.txt

(12)1966年、空軍はラオスと南北ヴェトナム国境間に枯れ葉剤の散布を開始した。散布域の拡大で、1966年には枯れ葉剤の補給が急務となり、米国ではほとんど除草剤不足状態だった。Buckingham, 133.

(13)沖縄の軍作業員への被曝に関するさらなる情報については、拙論文を参照。Jon Mitchell, 'US Military Defoliants on Okinawa: Agent Orange,' The Asia-Pacific Journal Vol 9, Issue 37 No 5, September 12, 2011.
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3601

(14)Philip Jones Griffiths, Agent Orange - ‘Collateral Damage in Viet Nam, Trolley Ltd., London, 2003, 165.

(15)Buckingham, 164.

(16)Griffiths, 169.

(17)“Employment of Riot Control Agents, Flame, Smoke, Antiplant Agents, and Personnel Detectors in Counterguerilla Operations,” Department of the Army Training Circular, April 1969.

(18)Buckingham, 188.

(19)赤帽作戦期間中のエージェント・オレンジ処分の疑いについては、拙論文を参照。Jon Mitchell, 'US Military Defoliants on Okinawa: Agent Orange,' The Asia-Pacific Journal Vol 9, Issue 37 No 5, September 12, 2011.
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3601

(20)モンタナのVAが行ったこのコメントに関する文書の入手の試みについては、現在、情報自由法に基づく公開請求で米国公文書館と長らく格闘中である。

(21)Jon Mitchell, “Beggars’ Belief: The Farmers’ Resistance Movement on Iejima Island, Okinawa”, The Asia-Pacific Journal, June 7, 2010.
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3370

(22)米軍が枯葉作戦, Okinawa Times, October 31, 1973.

(23)ゴーツの闘いについてより詳細な説明は以下で読むことができる。Jon Mitchell, "Okinawa vet blames cancer on defoliant: VA refuses aid amid Pentagon denial of Agent Orange at bases," Japan Times, Aug. 24, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/nn20110824f1.html
[日本語訳は以下でどうぞ]http://www.projectdisagree.org/2011/08/jon-mitchell3.html

(24)ゴーツのブログ「スパロー・ウォーク」http://sparrowwalk.blogspot.com/

(25)Buckingham, 188.

(26)この記者会見について日本語で放送されたニュースレポートは次で見ることができる。枯れ葉剤問題で英ジャーナリストが報告 「退役軍人がシュワブで使用を証言」QABステーションQ2011年11月4日。
http://www.qab.co.jp/news/2011110431825.html

(27)もともとはCOP10に備えて結成された沖縄生物多様性市民ネットワークは、環境・平和・人権の相互関係を中心課題とするグループである。
http://www.bd.libre-okinawa.com/

(28)目取真俊は、沖縄における枯葉剤の真実を求める闘いへの関心を高めている。彼のblogでも記者会見の様子が報告されている。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/812687127772537104c646c63244a072

(29)パートンの証言の全文は以下で読むことが出来る。
Jon Mitchell, "Agent Orange revelations raise Futenma stakesToxic defoliant stored, possibly buried in camp slated as relocation site for contentious air base in Okinawa, ailing U.S. veteran claims," Japan Times, Oct. 18, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/fl20111018zg.html
[日本語訳は以下でどうぞ]http://www.projectdisagree.org/2011/10/4_20.html

(30)2011年10月、日本における枯葉剤問題の権威であるヴェトナム戦場カメラマンの中村悟郎と面談した。彼によれば、日本で研究者がダイオキシン関連物質を特定する試みは困難を抱えているとのことだった。疾病対策予防センター(Centers for Disease Control and Prevention)の症例記録が傑出している米国とちがって、日本にはこのような体制が不在である。保健に関する記録調査のための情報源が集中管理されていないと、研究者が、出生児障害や特定の癌などダイオキシンの危険性が想定される症状の高い発生率を特定するのは殆ど不可能である。唯一の手段として、枯れ葉剤の使用が疑われる地域付近の病院を調査することなどが挙げられる。

(31)“Employment of Riot Control Agents, Flame, Smoke, Antiplant Agents, and Personnel Detectors in Counterguerilla Operations,” Department of the Army Training Circular, April 1969.

(32)たとえば以下を参照。「薬品影響?北部で奇形生物」『沖縄タイムス』2007年7月12日。[訳者注f]


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翻訳者注
[訳者注a]新報の軍転協の報道では、発言した市町村名などの詳細は書かれていない。
ところで外務省の「玄葉外務大臣の沖縄訪問(概要)」ページでは枯葉剤の話題が出たことについて全く触れられていないことを指摘しておく。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/g_gemba/okinawa1110.html

[訳者注b]リンク切れ。以下を参照されたい。正確には10月22日、官房副長官と野国昌春北谷町長ほか中部首長との会談でのことを指す。「官房副長官、嘉手納統合を否定 辺野古「厳しい状況」と認識」『琉球新報』2011年10月23日。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-183130-storytopic-3.html

[訳者注c]記事紙面はたとえば以下で確認できる。
http://takae.ti-da.net/e3712458.html

[訳者注d]文書は、米国農務省図書館のエージェント・オレンジに関する特別コレクション内にある。
Advanced Research Projects Agency, Project AGILE, R, "Semiannual Report, 1 July- 31 December 1963," found in Special Collections of the National Agricultural Library, The Alvin L. Young Colletion on Agent Orange, Series II. Military Use of Herbicides, 1950s- 1980s, File #340.  
http://www.nal.usda.gov/speccoll/findaids/agentorange/

[訳者注e]たとえば以下などで参照できる。"Agent Orange was likely used in Okinawa: U.S. vet board," Japan Times, July 9, 2007. 
http://www.japantimes.co.jp/text/nn20070709a1.html

[訳者注f]タイムス報道は多くの人びとがblogに転載するなどして大きな反響を呼んだが、現在リンク切れ。2007年の枯れ葉剤報道については次も参照されたい。
http://www.projectdisagree.org/2011/11/2007.html

高江SLAPP訴訟、那覇地裁で結審しました

今日は傍聴席の3倍以上の人が詰めかけました。当たり券を、中に入るべき大切な人たちに譲って下さった方々も沢山。主要なリーダー的人物にだけでなく、初めて法廷に来た若い人にぜひ直接見てほしいと傍聴券を譲られる方もありました。こうした温かい支え合いをいつも素敵だと感じます。そして、今日も高江の座り込みに向かって下さった人たちもいます。私もまた、席を譲って頂いたものとして、感謝をこめて、今日の法廷の様子の一端をご紹介したいと思いました。以下は高江弁護団の素晴らしい揺るぎない主張の要約メモです。(※聞き書きは正確ではないので、文書など引用に利用するばあいは、公的な記録を待ってそれを参照して下さい。勝手に小見出しを付けてみました。)

<国による民事訴訟?>
裁判所によく見て欲しいのは、これは民事訴訟だが、対等な市民同士の関係での訴訟ではないという点。国はまさに国家権力そのものであり、当事者2名を守る立場にあるべきではないか。国に対する批判や抗議を許さないというのは、民主主義ではない。国は批判を甘んじて受けとめるべきで、そもそも、ふたりは何の理由もなく反対しているのではない。

<すでにある被害>
すでにあるヘリパッドの被害。墜落の危険は具体的なもので、忘れてはならないのは、昨年末の超低空ホバリングによる被害について、米軍が「通常の訓練」と説明した際に国は有効な対応を出来なかった。

<オスプレイ>
ヘリパッドはオスプレイの訓練を念頭においており、使用は確実。構造的欠陥を持っている機種。当事者ふたりの抗議と説得活動はこうしたことを止めて欲しいという思いによるもの。

<民主的な手続きの方途を断たれた人びとの抗議>
人によっては、反対活動はもっと民主的手続きに則って行うべきとの意見もあるかもしれない。しかし、民主党政権に交代して後、たびたびの態度変更のことを考えるべき。東村や高江区が容認などと説明しようとしているが、民意が歪められている。仲井間知事の容認も、オスプレイ配備が明らかになる以前のことである。オスプレイの事実を隠しておきながら、地元が容認しているなどというのはデタラメ。現地で抗議しなければどうなっていたか。抗議は全く正当なもの。

<ヘリパッド建設の必要性>
国が強引に進めようとしているヘリパッド建設は本当に必要なものなのか。専門家証人の尋問で明らかにされたとおり、海兵隊の沖縄配備の必要性は米国でも疑問視されてきている。アメリカが必要ないもの、いらないものを返すのに、アメリカのわがままに日本政府が付き合って、高江に押しつけようとしているものだ。

<妨害の証拠はない>
ところで、いかに正当な抗議でもその手段は問われるべきかもしれない。当事者2名の行為は、暴力に訴えることなく、国がやる不当な押しつけから生活を守りたいと、やむにやまれず行う抗議であり、国はこれを甘んじて受けるべきである。国の提出した証拠には、ふたりが妨害していると認められるものがなく、誰かに指示をしたという証拠もない。そもそも、証拠はどれも、通行じたいの可否が問題になっていないものや、数分程度の短い時間の抗議など。国側証人の現場責任者で仮処分の指定代理人であった者は、ふたりの行為について殆ど記憶もなく、妨害というような目立った行為はなかったということに他ならない。国側の証拠は破綻している。

<スクラムと座り込みについて>
スクラムを組むとは、腕を組んで隣の人と団結して頑張ろうという意志表明であると同時に、腕を組むことで相手に対して手を挙げない非暴力の意志を示している。弱い者たちが集まって非暴力で行う行為は、座り込むことによって、身を賭して守りたいものがあるという意志の表明であり、座ることは、攻撃をしないという意思表示である。力に訴えないで、土地を守りたいという思いで座り込むのである。

<「第三者をして」の問題性>
国が言う「第三者をして妨害させている」という主旨は、大きな問題である。憲法で保障された表現の自由である、集会やネットの発言までが妨害の証拠だと述べるに至っているのは問題。また、第三者に何をさせてはだめなのかも説明できず、表現活動の萎縮につながっている。

<SLAPP訴訟>
国の請求はこのように根拠のないものなのに、なぜこのような裁判を起こしたのか。これはSLAPPというしかないもの。国にとっては勝ち負けの結果は関係なく、ただ裁判の手続きに引きずり込むことを目的としている。現に裁判中にも工事に来ており、証拠の提出もノラリクラリと後出しで証拠を出す。国は裁判を終わらせる必要がないからだ。

<国による民事請求の妥当性>
そもそも国の所有権は充分に説明できるのか。請求権にも疑問がある。

<クリーンハンズ原則>
また、杜撰なアセスの問題もある。クリーンハンズ原則にもとるもの。汚れた手で法の救済を求めるとは、言語道断である。

<沖縄の銃剣とブルドーザー>
米軍基地を拡張しようと文字通り土地を奪われた歴史がある。そのなかで、伊江島の人びとは、相手が略奪者でも、ひとりひとりに説得を試み共感を得ようと努力した。そこには陳情規定というものがあった。あまりに理不尽なことだが、この時の土地収奪は法的な手続きに則って行われたと言う。このとき伊江島の人びとは、破壊者だったのか。違うだろう。本件当事者は、阿波根昌鴻の名前を理想として挙げ、共感を呼べるような活動をしたいと語っていた。

<裁かれるべきは>
ところで、阿波根昌鴻の米軍統治の時代ではなく、今日は個人の人権が守られるべき時代なのであり、自らの尊厳を求める当事者ふたりには恥も不名誉もない。反対に田中元局長発言に見られるように、防衛局はお上の言うことに従えと、力ずくでねじ伏せるというやり方。
裁判で裁かれるべきは国です。



【おまけ】画像は最近かなりアヴァンギャルドになってきている「りゅうちゃんクイズ」。こたえだけ見て、このクイズの問題はなんだったのか、を当ててみて下さい。
A.沖縄にある暴力装置の名前は?
B.沖縄で乱暴狼藉をはたらいても起訴されない人たちは?
C.沖縄の豊かさを阻害し自然環境を破壊しても憲法で規制できないのは?
D.沖縄で税金を無駄遣いし被災地に送るべき予算を先に横取りしクリスマスだイルミネーションだといって節電する気もないのは?

20111211

ジョン・ミッチェルの枯葉剤論文 Japan Focus ID 3601

Japan Focus に掲載されているジョン・ミッチェルさんの枯葉剤に関する論文、翻訳が追いつかないままだったのですが、やっとひとつめが翻訳できました。微修正があとから追加されるかも知れませんが、少しでも早く多くの方に読んでいただきたく(すでにかなり出遅れましたが)、どうぞご利用下さい。
またオリジナルのサイトには写真や動画もありますので、参照しながら読むとよいと思います。


ジョン・ミッチェル
「沖縄における米軍の枯葉剤:エージェント・オレンジ」
http://www.japanfocus.org/-Jon-Mitchell/3601


はじめに
2011年8月19日、日本外務省はヴェトナム戦争期の沖縄における米軍の枯葉剤(オレンジ剤を含む)の使用と貯蔵について最近マスコミで報道されたことを受けて見解を発表した。外務省の発表によれば、米国防省にこれらの疑いについて調査を求めたが、ワシントンは、問題の時期に如何なる証拠も発見されなかったとの回答だったという。その結果、東京は米政府にさらに詳細な記録の再調査を求めた。(1)日本政府が米国に枯葉剤調査を求めたのは2007年以来のこととなった。また、記録の保管を否定したペンタゴンの回答を拒否することは珍しいことだった。これらの化学品が1960-70年代の沖縄で広く使用されていたと主張する新聞報道がつづいたかつてないこの2週間の後に、今回の発表が行われたのである。


定期的に新事実が暴露されたが、これはなお、急速に展開しつつある問題である。しかし本論文では、現在に至る状況を解きほぐして説明を試みる。まずヴェトナム戦争期の沖縄の役割と戦争における枯葉剤の使用について外観し、次に、この島における枯葉剤の存在を公式に認めることになった退役軍人局(VA)の1998年裁定、2009年裁定について探る。その後、沖縄で枯葉剤の輸送、貯蔵、散布、埋却を含む取扱いの経験について元米兵の証言をまとめる。結論では、ペンタゴンから認定を勝ち取ろうとするさいに、これらの米兵や沖縄住民が直面する障壁、加えて、希望の予兆、困難とはいえ、このような承認は獲得可能であることを述べたい。



沖縄とヴェトナム戦争
1945年6月に米軍占領を受けたあと、沖縄は急速に、オリンピック作戦、想定されていた連合軍の日本本土侵攻の前線基地となった。原子爆弾とソヴィエトの日本への宣戦布告によって、さらなる攻撃は不要とされた。東京を中心とした占領に勝者の関心が集まったため、沖縄の重要性は低下した。1949年11月までには、『タイム・マガジン』誌は「忘れられた島」と呼び、「この4年間で、貧しく台風の多い沖縄は、口の悪い兵士に言わせれば「後方支援戦線の最後尾」にぶらさがっている」と述べた。

この無視という態度は、毛沢東のconsolidation of Communist[「第二次国共合作」のこと?翻訳者注] の中国支配、1950年6月の朝鮮半島における戦争の勃発で一転した。裕仁天皇の推挙によって、米国政府は、沖縄が当該地域における反共の戦略的な緩衝地帯として重要だと把握するにいたった。1952年、サンフランシスコ条約が発効して連合軍による日本占領が終了したが、その第3条が沖縄の未来を除外したのである:

「合州国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」(3)

条約調印直後に、沖縄は東南アジアにおけるすべての戦争のハブとなった。アメリカの船艦は沖縄の港で積荷を降ろしたが、そのすぐそばの基地で保管された物資には、ビールやトイレットペーパーからマスタードガス、神経ガス(以下の「赤帽作戦(Operation Red Hat):2009年フォート・ハリソンVA裁定」の節で論じた)などのもっと危険な品目までなんでもあった。嘉手納空軍基地からはB52が連日、ヴェトナム、ラオス、カンボディアへの爆撃に飛び立ったし、沖縄の北部のやんばると呼ばれるジャングルでは、ニセのヴェトコン村がつくられ、この戦争ゲームにリアリティを加味するため毎日雇われた地元住民がいた。

15年を少し上回る期間、沖縄は「後方支援戦線の最後尾」から大きく外れ、この地域の要諦(linchpin機軸、根幹)であり、太平洋軍の司令官、ウリセス・S・グラント・シャープ提督をして、1965年に「沖縄がなければ、我々はベトナム戦争を遂行できない」(4)と言わしめている。


軍事目的の枯葉剤について:概略
1930年代から40年代、米軍は敵兵や民間人の隠れ蓑や食糧収穫となるジャングルから追い出す目的で枯葉剤を用いる可能性を調査するため多額の費用を費やすようになっていた。その成果は第二次大戦での使用には間に合わなかったが、1940年代末から1950年代、国防省は米大陸本土とプエルトリコの森林や農場でこれらの化学薬品の試験を幅広く継続していた(5)。

化学薬品の配合バランスによって、軍はこれらの枯葉剤を入れたドラム缶に異なる色の縞模様で色分けし、これが、広く知られることになる溶剤の名前、ピンク、グリーン、パープル、ホワイト、ブルー、そしてオレンジ、となった。1962年、ペンタゴンは公式にランチハンド作戦(Operation Ranch Hand)に着手した。南ベトナム、ラオス、カンボディアに10年以上にわたって散布することになる作戦である。1962年から1971年までの間に、約7600万リットルの枯葉剤が使用され、そのうち、400万リットルが、「手作業による噴霧、噴霧トラック(バッファロータービン)、ヘリコプター、ボート」によって撒かれた(6)。エージェント・オレンジといえば、C−123航空機が霧の雲の中を飛行する様子を放送したテレビの映像をイメージする人びとにとって、こうした小規模の噴霧方法は、意外に思うかもしれない。
(写真C−123航空機の散布の様子)キャプ「ヴェトナムでのエージェント・オレンジ散布」

だが、ヴェトナム戦場ジャーナリストのフィリップ・ジョーンズ・グリフィスによれば、「除草剤の使用はジャングルに限られたことではなかった。軍事基地の周囲の草刈りや、多くの場合、基地内でも幅広く使用されていた」という(7)。フレッド・A・ウィルコックスは、同様に「基地の周囲に定期的に散布していた」との指摘をしている(8)。

この現地での散布はGIたちに任されていたが、かれらには基本的な安全装備での防護すらなかった。1970年代末まで、これらの枯葉剤に含まれるダイオキシンの毒性について一般的に知られていなかったからである。1960年代を通じて、製造会社のダウとモンサントは、繰り返し自社製品の危険性についてのメモをたびたび握りつぶした(9)。そのうえ1969年、米軍は、1967年の段階ですでに危険性の疑いがあったにも拘わらず、「(エージェント・)オレンジは人体や動物にはほぼ無害である。航空機散布で曝された兵員による負傷の報告はない」と兵員に対して発表し続けていた(10)。

1971年までに、これらの枯葉剤の健康への危険性に関する科学的証拠や報道の集中砲火を浴びて、ようやく、ペンタゴンはランチハンド作戦終結を宣言せざるを得なくなった。ところが、残った枯葉剤の在庫は、その後も数年以上にわたって、除草目的で使用され続けたのである。科学者の推計によれば、1961年から1971年の間に製造された枯葉剤には、360キログラム以上のダイオキシンが含まれており(11)、この黙示録的とも言うべき量は、一兆人の致死量に相当する(measured in parts)のである。ヴェトナムだけで、赤十字社は「先天性障害を持つ15万人の新生児を含む、300万人のヴェトナム人がエージェント・オレンジの被害を受けた」と推定している(12)。

枯葉剤製造社は、ヴェトナムの被害者に対して全く補償を行って来なかったが、1984年に、被曝した米退役軍人に対して1億8000ドルの賠償を行うことで法廷での和解(settled out of court)が決定した(13)。1962年から1975年の間にヴェトナムに駐留したアメリカ人米兵すべてに、軍の枯葉剤被曝を認定し、これがダイオキシンに由来する疾病への補助を可能にした。症例には前立腺癌、ホジキン病(悪性リンパ腫)、多発性骨髄腫が含まれる。退役軍人局(VA)は枯葉剤を使用したとペンタゴンが公的に認知している地域の一覧を保管している、そこにはカナダ、タイ、朝鮮半島の非武装地帯、ラオス、プエルトリコと合州国内の12の州が含まれる(14)。


沖縄の軍用枯葉剤:1998年退役軍人局のサンディエゴ裁定
2007年7月、ほんのつかの間、国防省が沖縄をこの地域リストに加えるかどうかの局面が訪れた。共同通信が「エージェント・オレンジ沖縄で使用の可能性:米退役軍人局の調査委で」(15)と題した記事を配信したときのことである。記者はサンディエゴ地方事務局が、1961年から62年に沖縄に駐留したため前立腺癌にかかったと主張する元米兵に補償を認定した1998年のVA裁定を明らかにした(16)。

米海兵隊の運転手をつとめたこの元兵士は、「輸送や、沖縄北部での模擬戦闘訓練(War Games Training)で使用された際にエージェント・オレンジ被曝していたと報告された」。元米兵の話では、軍用枯葉剤が使用されたのは「特に駐留基地の周囲だった。トラックや背負った容器からの散布は道路周辺にも用いられた」。

この審査での裁定において、VAの見解は以下のとおりである。「元兵士は、確かに彼の証言する場所におり、この時期、軍が増強を図っていたとする観点を補強する意見も多数ある。従事した作業は、除草剤の混合や輸送と矛盾しない。当時、これらは使用されており、警告は必ずしも与えられていたとはいえない」。そして「エージェント・オレンジ被曝を原因とする前立腺癌と軍務との関連が認められる」と結論した。

1998年裁定は、3つの重要な点で新しい局面を切り拓いた。初めて米政府の部局が沖縄での枯葉剤被曝のみを原因とする元米兵への補償を認めていたことである。ヴェトナムへの出撃拠点としての沖縄の役割を考えれば、大半の元兵士は、両方の地域で軍務に就いていた。そのためどこで被曝したのかという点は判断が難しかった。だが1998年裁定で、元兵士はヴェトナムに行ったことがなく、そのダイオキシンに関連する症状は沖縄で起こったと確定出来たという点である。

第2の重要な点は、この裁定が本件に関するペンタゴンの公式の説明と矛盾する結果となったことである。2004年に、統合参謀本部長リチャード・マイヤーズ将軍(General Richard Myers, Chairman of the Joint Chiefs of Staff)は、下院の退役軍人問題委員会の審議で「沖縄におけるエージェント・オレンジその他の除草剤の使用、貯蔵を裏付ける資料はない」と回答したことが発表されていた。彼はさらに「エージェント・オレンジの事故その他によるいっさいの漏出の記録はない。したがって、沖縄に駐留した兵士について軍務中のエージェント・オレンジまたは同類の除草剤への被曝の記録はない」とまで言い及んでいる(17)。共同通信の記事が発表された後も、国防省はこの姿勢を変えていない。

第3に1998年裁定によって、自分たちもまた沖縄で枯葉剤に被曝したと疑っていた数百にのぼる他の元兵士たちが堰を切ったように現れた。もしもこの裁定が民事裁判でなされていたとすれば、他の人びとの主張を裏付けるための判例となっていただろう。しかし、VAの裁定はそのように利用できない。1998年裁定を根拠に申請を試みたが却下された2010年の事例がそれを物語っている。

「委員会の裁定は前例とはならない。連邦規則集第38巻第20条(38 C.F.R. § 20.1303)。よって、その他の委員会決定でなされたいかなる根拠、結論、発見も、本裁定には関連せず、退役兵の要求については、本件における個別の事実に基づいて決定されるものとする」(18)。

この規定のために、1998年の決定以後13年間、沖縄で軍用枯葉剤に被曝した他の元米兵には誰一人として補償が認められていない。


赤帽作戦:2009年フォート・ハリソンVA裁定
かつて軍務に従事した人びとの不満を募らせたのは、モンタナ州フォート・ハリソンのVA地方事務所でのさらなる発言である。これは2009年11月、1962年から64年の沖縄駐留の間に枯葉剤に被曝したと証言した補給作業員の主張に関する裁定だった。VAは元米兵の主張を却下したが、本件に関するペンタゴンの立場との矛盾を直裁に示す証拠を、うっかり提示してしまったのである。

「赤帽作戦に関する記録によれば、除草剤が沖縄に貯蔵され、後に、1969年8月から1972年3月までの間に処理された」(19)[下線部強調は著者による]。

この下りは、1971年赤帽作戦に関する公文書と完全に一致する。 二期に及ぶ計画の(two-phase project)期間中、陸軍は、1万2000トンにのぼる生物・化学兵器(神経ガス、マスタードガスを含む)の貯蔵物を沖縄から南太平洋のジョンストン島へ撤去した(20)。これら移送品のなかに軍用枯葉剤が含まれていたのではないかとの疑惑は以前からあった。同年、米軍が350万リットルの軍用枯葉剤を南ヴェトナムからジョンストン島へ引き揚げているからである(21)。さらに、除草剤が「沖縄で処理された」という記述は、この期間に沖縄島内の3箇所に埋却した枯葉剤についての元米兵の説明によって裏付けられる(後述する「キャンプ・ハンビーで枯葉剤を処分:海兵隊普天間飛行場と嘉手納空軍基地」を参照)。

2007年の共同通信の記事が配信された後、まだ日の浅い時期に暴露されたこの最新の情報が、沖縄でダイオキシン被曝して罹患した多くの元米兵に希望を与えたのである。にも拘わらずVAは例外なく、あらゆる要求を却下し続けていた。以前は、多くの元従軍兵たちは、かれらの体験が表沙汰になると、自分たちの名誉に傷が付き、なおかつ、補償金を受け取る機会を閉ざすのではないかと恐れていた。しかし、今日、彼らの多くが、失うものはもう殆どないと気付いたのである。


元米兵、証言す
2011年4月12日、『ジャパン・タイムズ』紙に3人の元米兵の証言に基づいて書いた筆者の記事「沖縄におけるエージェント・オレンジの証拠」が掲載された(22)。港湾荷役の作業に従事していたジェイムズ・スペンサーは那覇港とホワイト・ビーチで何百缶ものエージェント・オレンジの荷下ろしについて詳述した。ジョー・シパラは、泡瀬通信施設に勤務した空軍兵で、除草目的で基地の周囲に定期的に枯葉剤を噴霧した様子を説明した。ラマー・スリートは、キャンプ・クエの衛生兵で、基地の設置の際にエージェント・オレンジが使われたこと、容器からこぼれた枯葉剤を浴びた兵士の事件に立ち会ったことを語った。

3人はみな、VAがエージェント・オレンジ被曝の症状と認定する病気に罹っており、もしもヴェトナムに駐留した経験があれば、医療補償を認定されていただろう。しかし、かれらの要求は却下された。主な理由は、沖縄に軍用枯葉剤の記録はないとの主張を国防省がいまだに続けているからである。

2011年4月の記事に勇気づけられて、さらに多くの元兵士たちが、かれらの体験を証言するに至った(23)。それらの説明を集約すれば、南は那覇軍港から北はジャングル戦闘訓練センターまで、十数カ所の沖縄の駐留地で、軍用枯葉剤が輸送、貯蔵、散布、埋却された状況の全体像を描くことができる。施政権返還の前後に及ぶ1961年から1975年までの14年間にわたって、エージェント・オレンジ、イエロー、ピンク、パープル、ブルーの何千もの容器が沖縄に存在したことを彼らは指摘しているのである。

1. 輸送
「あらゆるヴェトナム戦争は、エージェント・オレンジも含めて、那覇軍港を通過したのだ」。

元兵士の説明によれば、沖縄に到着した枯葉剤の大半は那覇軍港に着いた。わずかな規模でホワイト・ビーチと天願桟橋にも着いた。時に、米国からの輸送途中で容器が破損し、港湾作業員は漏れ出る化学物質を浴びた。これらの港に到着した後、ドラム缶容器は一時的に保管され、小規模船舶に積み替えてヴェトナムへ輸送された。別の方法では、枯葉剤はトラックで嘉手納空軍基地か普天間飛行場へ運ばれ、そこから戦場へと飛んだ。

枯葉剤の沖縄への移送に関与した会社は、ベアー・アンド・ステイト・ライン商船(the Bear and the State Line merchant marine ships)、個別の船舶ではSS シーリフト、SSトランスグローブ、SSシャイラー・オーティス・ブランドであった。

軍需物資輸送における民間船の使用は、ヴェトナム戦争では多く記録されている。エージェント・オレンジ輸送に関する情報は国防省(すなわち当時の国軍省)の記録にないとのペンタゴンの主張は、用語を用いた巧妙なごまかしと言えるだろう。


2. 貯蔵
「補給場のことで一番よく覚えているのは、積み上がったアルミニウム製の棺桶と、真ん中にオレンジのストライプが描かれた55ガロン缶だね。」

枯葉剤は上述の埠頭から積み降ろされた後、元米兵の証言によれば、3カ所の主要な場所に保管され、南ヴェトナムへ輸送する命令が下るまで待機した。マチナト補給地区、那覇港、嘉手納空軍基地である。

マチナト補給廠は、元米兵のインタビューでもっとも頻繁に言及される。「オレンジの縞模様の55ガロン缶が何百もあった」とある元フォークリフト操縦士は想起する。「マチナトでは、RBX(Red Ball Express 赤玉特急= ヴェトナム戦争時の兵士たちは、第二次大戦時のことばを借りてきて、前線へ補給を行う輸送システムのことをこのように呼んだ)の注文に応えるべく、定期的にそれらをパレットに積んだ」。証言によれば、マチナトにはエージェント・オレンジに加えて、エージェント・イエロー、ブルーがもあった。元トラック運転手はマチナトの枯葉剤貯蔵場所を正確に示すことができ、「第2輸送部隊が一時的に営舎を置いた敷地と、材木置き場との間の海に近い広場にあった」という。

那覇港は、2番目によく言及される貯蔵場所である。元兵士は、埠頭側の倉庫に何千もの枯葉剤の缶が積み降ろされたと主張している。証言では、1961年から1970年にわたって、那覇港はピンク、パープル、オレンジを含む軍用に用いられた全範囲の枯葉剤溶剤を保管するために使われていた。「当時は、なんでも同じように取り扱った」と、1960年代末に駐留した元兵士のひとりは言う。「20年経って、テレビのドキュメンタリ番組で見るまで、あのオレンジの縞模様のドラム缶が何なのかさえ知らなかったのだ」。

嘉手納空軍基地は、元米兵の証言中、第3番目の規模で貯蔵された場所である。その主張によれば、1960年代末まで、「嘉手納にエージェント・オレンジのドラム缶が沢山あることは、みんな知ってたよ」。元兵士は、南ヴェトナム行きの航空機に積み込まれるまで枯葉剤はそこに保管されていたのだと語っている。別の元兵士は、嘉手納の知花補給廠で枯葉剤のドラム缶を見たことを覚えている。1969年、神経ガスが漏れ、陸軍が赤帽作戦の実施を急いだあの場所である。

これら3カ所のほかにも、多くの米軍基地で区域の除草のために小規模の枯葉剤を保管していたことは確かなようだ。その規模は、「50缶かもう少し多かったかもしれない」キャンプ・シュワブから、1缶を保有し、必要に応じて補給トラックから補填したという泡瀬通信施設までさまざまであった。

3. 散布(24)
「それは簡単だし効果的だった。一番重要なのは、ハブを寄せ付けないという点だ」。

軍用枯葉剤の大半はヴェトナムに輸送されたが、地元で除草剤としても使われたことを、元兵士たちは証言している。南ベトナムでのことを語るグリフィスとウィルコックスと同様である。「記録保管の必要がなかったので、司令官の多くは、雑草を生やさない安上がりな手段としてエージェント・オレンジを『採用』した」とある元米兵は語った。

元兵士は、(キャンプ・フォスター、泡瀬通信施設、キャンプ・シュワブ、キャンプ・クエ、マチナト補給廠、読谷[軍用]犬訓練所(25)などの)周囲を区画するフェンスの付近や、飛行場の滑走路(嘉手納空軍基地、普天間飛行場)で使用するまえに、背中に背負うタイプの噴霧器に枯葉剤を補充する方法を詳述した。また、マチナト、キャンプ端慶覧の住宅区画に散布したとの報告もある。将校クラブ、キャンプ・フォスターのクバサキ・ハイスクール(下記参照)も対象だった。

枯葉剤を使い切った後のドラム缶は、ゴミ焼却に再利用されたとの説明もある。このような習慣は特に危険で、ステルマンほか著によれば「208リットル缶が「空」になったあとにも、約2リットルの除草剤が残留しており、燃焼過程でダイオキシンの毒性が上昇すると考えられる」という(27)。

4. 民間人の被曝
「私たちは国に貢献し、今や病に苦しんでいる。私の子どもたちや沖縄の子どもたちはどうなったのか?かれらも苦しむのか?」

多くの場合、元兵士の説明は米軍基地内部での枯葉剤の輸送、貯蔵、使用についてであり、米軍兵士がダイオキシン被曝の危険に晒されていたことを示している。しかし沖縄とアメリカ双方の民間人もこれらの化学品に接した可能性を示す証拠がある。

i. 沖縄軍雇用員
1960年代半ばからの元兵士の証言は、60年代末まで、普通は基地で枯葉剤を噴霧したのは米国人作業員だったというが、業務が地元住民に委託されていたことが明らかになった。キャンプ・クエでは、たとえば、ある元兵士は「アメリカ人監督の指導の下で沖縄人が枯葉剤を噴霧していた」ことを覚えている。キャンプ・フォスターにおいても、別の元米兵が、「様々な機会に、沖縄人の地上職員が建物や冷蔵保管区の周囲に枯葉剤を噴霧していた」のを目撃している。マチナト補給廠でも、エージェント・オレンジの積載や散布に沖縄人労働者が加わっていたとの報告がある。

ii) 沖縄人農家
元兵士の主張によれば、枯葉剤の効果を見た沖縄の人はその雑草駆除力に感心していた。元兵士によれば、アメリカ製品が非合法に沖縄製品と取引されたのと同じように、少量の軍用枯葉剤が地元住民と交換された。それらの沖縄人は農家であると元兵士は思っているが、引き渡した化学薬品がその後どのように使用されたかは確認していない。

iii) 国防省付属学校
元兵士の説明において、1960年代末に、国防省付属の学校周辺に枯葉剤を噴霧したことが複数から言及されている。そのうち、キャンプ・フォスターのクバサキ・ハイスクールについては二人の元兵士が言及している。陸軍と沖縄の管理人が定期的にエージェント・オレンジを使用して、教室近く、校庭、運動場の除草を行ったと主張している。ひとりの元兵士によれば、枯葉剤はヴェトナムに送られるものと同じ補給場から届いていることは誰でも知っていたことだという。別の元兵士は、この用法は、キャンプ・フォスターのあらゆる場所で噴霧された除草剤についても一致していると主張している。

5. キャンプ・ハンビー、普天間飛行場、嘉手納空軍基地での枯葉剤の処分
「軍はいつものようにやった。埋めるのだ。」
2009年、1969年から1972年の間に沖縄で除草剤溶剤の処分に関して言及したフォート・ハリソンのVAの解説は、マチナト補給廠で働いていた元フォークリフト運転手の証言を裏付けている。この元兵士によれば、1969年、彼は海上輸送の途中で破損したエージェント・オレンジのドラム缶を何十も埋却するのを目撃している(28)。

「かれらが長い溝を掘ったのを見た。クレーンが複数台あってコンテナをつり上げていた。そして、中のドラム缶をぜんぶその溝に揺すり落とした。その後、土をかぶせて埋めた。どこかって?ハンビー地区(現在の北谷)のメインゲートを通って、25マイル先に行くとコネックス(コンテナ置き場)がある。溝は海から半マイルほどの距離で、岩に近かった」。

この元兵士によると、エージェント・オレンジが埋却されたのはハンビー地区だけではない。1970年の終わりまでに、米軍は枯葉剤使用の規模を縮小するよう求める高まる圧力(29)にあって、このほかに海兵隊普天間飛行場と、嘉手納空軍基地の二つの貯蔵についても埋却した。「軍はいつもやるようにやった」と元兵士は言う。「それらのドラム缶を埋めたのだ。本国に送り返すよりも費用がかからないからだ。そうしたほうが安上がりだからだ」。


8月8日、沖縄キリスト教学院大学での発表の反響
2011年8月、西原町の沖縄キリスト教学院大学で、軍用枯葉剤に関する調査の報告を行った。
<動画資料Part 1, Part 2>
この報告の前の週に、沖縄の日刊紙がこの島の軍用枯葉剤に関する詳細な記事を掲載していた。8月6日、『沖縄タイムス』紙は「枯葉剤9施設で使用」と報じた(30)。翌日、『琉球新報』紙は元空軍兵のジョー・シパラへのインタビューに基づいて「枯れ葉剤8施設で使用」(31)、「基地内の調査必要」(32)、「親子2代疾患に悩む」(33)の三つの記事を報道した。8月9日には、本土の『朝日新聞』がこの問題を採り上げ、「ベトナム戦時『米軍、沖縄の施設に枯れ葉剤』」(34)と報じた。その日の夜にはテレビのニュースでも「枯れ葉剤と沖縄の関係」(35)が放送された。

このように広くメディアに報道されたことで、日本政府は驚いたのか、8月9日には最初の公的な反応を示した。参議院外交防衛委員会で、松本剛明外相は、外交ルートを通じて米国側に事実関係を照会していると述べた。自民党の島尻安伊子は日米合同調査を求めたが、松本はまずワシントンの回答を聞きたいと言うにとどまった(36)。

5日後の8月14日、『ジャパン・タイムズ』紙は、キャンプ・ハンビーにエージェント・オレンジを埋却したと説明するフォークリフト運転手の記事を発表した(37)。ふたたび、沖縄のメディアは素早くこのニュースを報道した(38)。8月19日、米軍の日刊紙『スターズ・アンド・ストライプス』が「沖縄県知事、エージェント・オレンジ証言で緊急に調査を求めた」(39)と報じた。

日本語の東京を拠点とした報道は、この問題を採り上げないことにした。しかし、日米両政府は、予想される影響について把握していたことが判る。8月19日の夜、外相は「沖縄での軍用枯葉剤の証拠は発見されなかった」とペンタゴンは主張しているが、日本政府はさらなる調査を求めたと発表した。


結論
1989年、フレッド・A・ウィルコックスは著書『死ぬまで軍を待って』のなかで、ヴェトナム戦争時エージェント・オレンジに被曝したと認定を受ける過程で元米兵が直面した困難を記録した。22年後の今なお、このタイトルは、沖縄でダイオキシンに被曝したと言う元兵士に対してペンタゴンやVAが取る態度を、よく表している。本論文でインタビューに答えた元兵士たちは、当局がかれらの要求を滞らせるときに採用する終わりの見えない堂々巡りの策略について語っている。見つからない配備命令、通院記録の紛失、そして存在しないとVAは知っている40年前の記録を探し出すよう元兵士に要求するのだ。「退役軍人第一主義」の替わりに、VAはスローガンを「みんな死ぬまで遅らせろ、拒絶しろ」に変えるべきだと多くの元兵士たちは思っている。沖縄におけるエージェント・オレンジを国防省は認めることになるだろうかと考えを尋ねると、ひとりの退役陸軍兵はこう答えた。「どれだけ出費しなければならないか想像してみたまえ。そういうことだ。退役軍人のことなど気にかけていない。カネの問題さ」。

彼の答えは、筆者がインタビューした退役兵たちのほぼすべての考えを代弁している。1998年VA裁定が、あの当時広く知られていたなら、米国経済は好調で、退役兵への国民感情もまだ良かったころであれば、ペンタゴンはこの問題についてきちんと解決できていたかもしれない。だが、この13年間で世界は大きく変化し、米国経済は長引く不況にあえぎ、アメリカ帝国のこの小さな前哨地で有毒化学物質に曝された退役兵たちが、困難な闘いを強いられている。

沖縄の米軍はすでに環境問題の点で疑うべき実績を記録している。鳥島は1990年代の劣化ウラン弾使用により立ち入り禁止区域にされ、かつてキャンプ・レスターのあった場所はヒ素とアスベストが深刻な数値レベルで残留している。こうした雰囲気のなかで、沖縄での軍用枯葉剤の存在を認めるようなことになれば、環境影響評価と浄化の費用は数千万ドルに及ぶだろうことなど、ペンタゴンは痛いほどよく判っているのだ。

こうした困難が否定できないにもかかわらず、米国政府がじきに、この沈黙を破らざるを得なくなるだろうという、前向きな兆しもある。ヴェトナム戦退役船員協会の立法担当上級代理人(Senior Legislative Advocate)ジェフ・ディヴィスは、「国防省は明らかに役に立たないが、退役軍人局を、証言、統計、科学、記録で圧倒すれば勝てる」と言う。

過去に、この問題で元兵士たちが統一戦線をつくるための主たる障害は、体験談を裏付ける追跡調査の、官僚的・地理的困難だった。ジョー・シパラは、facebookでフォーカス・グループ「エージェント・オレンジ・オキナワ」を創設し、この障壁を乗り越える最前線にある。

シパラはサイトを使ってメディアに掲載された報告書を共有し、エージェント・オレンジ被曝した元兵士たちの間に連帯意識をはぐくみ、VAのやっかいな(hoops and barrels)申請手続きの指南をしている。2011年4月以降、サイトは3万5000ビュー以上を記録し、沖縄でダイオキシンに被曝したという、さらに12名の元兵士の証言に道を拓いた(40)。

同じく、ソーシャル・メディアは、他の地域で認定を求めて闘う元兵士との間にも連帯感を生んでいる。枯葉剤の存在に関するこれほど圧倒的な証拠にも拘わらず、使用されたことがないとペンタゴンが否定し続けている場所、よく知られているところではグアムや韓国などである。このグローバルな取り組みによって、元兵士たちも、これらの化学物質がどのようにしてどの場所に配備されたかをよりよく理解できるようになり、限定された情報にアクセスし、この問題を広く一般に知らせるためのテクニックを共有することにもつながっている。

同時に、8月8日の報告は、沖縄の環境団体と沖縄で被曝した元米兵との間に協同関係を促進する手助けとなった。双方の関係者は連絡を取り合い、元米兵を沖縄に招いてかつて貯蔵されていた場所の特定や、健康への危険性について地域の指導的立場の人びととの対話を持つ計画案も始まっている。沖縄のグループの側では元軍雇用員で枯葉剤を取り扱った可能性のある人びとの証言を収集し、長期的な目標を定めた疫学的研究に結びつくような計画が始まっている。

さらに、軍用枯葉剤が貯蔵されていた地域の土壌と水質の調査に関する計画も進行中だ。南ヴェトナムで同様に貯蔵されていた場所との比較が精緻に行われるならば、これらの場所は今日も依然として高濃度に汚染されたまま現実的な危険性がある(41)。紛れもなく、これらの調査、そしてこれらの指摘が確認されたならば次に必要になる環境浄化には、費用がかかるだろう。だが、健康への危険は非常に高いものであり、日米両政府によるこれ以上の対処の遅れは、単なる黙殺にとどまらない隠蔽であると言える。被害は、本論文でインタビューに答えた元兵士だけでなく、現在、沖縄に駐留中の米兵、この致命的な化学物質を貯蔵していた地域で生活し、働き、農業をする沖縄の人びとにまで拡大するかもしれないのだ。


ジョン・ミッチェルは、ウェールズ生まれで横浜を拠点とする著述家。ニューヨーク、カーティス・ブラウン社を代理人とする。日米のメディアに沖縄の社会問題について広く執筆中。現在、東京工業大学で教えている。主な著作は、以下から。
http://www.jonmitchellinjapan.com/

出典表記
Jon Mitchell, 'US Military Defoliants on Okinawa: Agent Orange,' The Asia-Pacific Journal Vol 9, Issue 37 No 5, September 12, 2011.

参考文献
Ikhwan Kim, "Confronting Agent Orange in South Korea," Foreign Policy in Focus, September 23, 2011.
http://www.fpif.org/articles/confronting_agent_orange


注記
ジョー・シパラ、スコット・パートン、河村雅美、G・H、ケーテ・ゴーツ、ジェフ・ディヴィス、ロブ・エイブリー、キヌエ・大城=エイブリー、中嶋泉の各位から、本論の執筆にあたって貴重な意見と助力をいただきました。記して感謝します。

(1)この発表について日本語全文はここで見ることができる。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/23/8/0819_03.html

(2)“OKINAWA: Forgotten Island,” Time, November 28, 1949.
[2訳者注]タイム誌の該当記事へのリンクは以下(講読登録が必要)。
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,856392,00.html

(3)たとえばここを参照。
http://www.international.ucla.edu/article.asp?parentid=18436
[3訳者注]サンフランシスコ条約について外務省の解説サイトは以下。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h17.html
対訳はたとえば、田中明彦氏の以下を参照。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html

(4)Steve Rabson, "'Secret' 1965 Memo Reveals Plans to Keep U.S. bases and Nuclear Weapons Options in Okinawa After Reversion," The Asia-Pacific Journal, February 1, 2010.

(5)William A. Buckingham, Operation Ranch Hand - The air force and herbicides in Southeast Asia, 1961-1971 (Washington D.C.: Office of Air Force History, 1982).

(6)Jeanne Stellman et al. “The extent and patterns of usage of Agent Orange and other herbicides in Vietnam,” Nature, Vol 422, 681.
http://stellman.com/jms/Stellman1537.pdf

(7)Philip Jones Griffiths, Agent Orange: ‘Collateral Damage in Viet Nam (London: Trolley Ltd., 2003), 169.

(8)Fred A. Wilcox, Waiting For An Army To Die: The Tragedy of Agent Orange (Santa Ana: Seven Locks Press, 1989), 26.
http://www.fredawilcox.com/waiting_for_an_army_to_die__the_tragedy_of_agent_orange_99219.htm

(9)この隠蔽に関するよくまとまった概説については、次を参照。 Griffiths pp. 164-169.

(10 )"Employment of Riot Control Agents, Flame, Smoke, Antiplant Agents, and Personnel Detectors in Counterguerilla Operations,” Department of the Army Training Circular, April 1969.

(11)Stellman et al., 684.
(12)ヴェトナムの人びとの健康への影響その他の情報についてはこのリンクを参照。
http://www.agentorangerecord.com/impact_on_vietnam/health/
(13)これら枯葉剤を製造した主要な企業は、今なお、1984年の和解について、瑕疵を認めたわけではないと強く主張している。ダウ・ケミカル社は「人体への影響の証拠を集合的に再検討すると、エージェント・オレンジが元兵士の症状の原因であると証明するものはないというのが、今日の科学的な共通認識である」と主張している。参照リンクは以下。
http://www.dow.com/sustainability/debates/agentorange/
2004年に、コープウォッチは、モンサントの渉外担当者の発言を引用している。「信頼できる科学的証拠によれば、エージェント・オレンジは、深刻な長期にわたる健康被害の原因ではない」。参照リンクは以下。
http://www.corpwatch.org/article.php?id=11638
2005年、グリフィスは「化学薬品会社、そしてワシントンの売春婦たち、エージェント・オレンジは完全に無害だと言う文書を作成するつもりだ」とこれらの科学者たちを解任した(マンハッタン近隣区ネットワーク「ハロルド・ハドソン・チャナーと語ろう」2005年9月5日放送より)。

(14)地域の一覧は次で見ることができる。
http://www.publichealth.va.gov/docs/agentorange/dod_herbicides_outside_vietnam.pdf

(15)「米軍、沖縄で枯葉剤散布/60年代、元兵士にがん」『共同通信』2007年7月8日配信。
http://www.47news.jp/CN/200707/CN2007070801000362.html
[15訳者注]2007年のその他の枯葉剤報道については、こちらも参照されたい。http://www.projectdisagree.org/2011/11/2007.html


(16)本裁定(#9800877)の全文は次で見ることができる。
http://www.va.gov/vetapp98/files1/9800877.txt

(17)共同通信2007年7月8日記事より引用。

(18)VA裁定#1030176 全文は次から確認できる。
http://www.va.gov/vetapp10/files4/1030176.txt
[18訳者注]
「委員会裁定は前例とならない」は、裁定文書のREASONS AND BASES FOR FINDING AND CONCLUSION章、Analysis節の2段落めに出現する。
この文書によれば、該当する規定は、連邦規則集第38巻第20条1303項とされている。
Sec. 20.1303 Rule 1303. Nonprecedential nature of Board decisions.
Although the Board strives for consistency in issuing its decisions,
previously issued Board decisions will be considered binding only with
regard to the specific case decided. Prior decisions in other appeals
may be considered in a case to the extent that they reasonably relate to
the case, but each case presented to the Board will be decided on the
basis of the individual facts of the case in light of applicable
procedure and substantive law.
http://edocket.access.gpo.gov/cfr_2002/julqtr/38cfr20.1303.htm



(19)この裁定 #0941781 は次で確認できる。
http://www.va.gov/vetapp09/files5/0941781.txt

(20)赤帽作戦は、1969年、神経ガスの漏出によって20名以上の兵士が病院へ運ばれた事件を受けて実施された。「赤帽作戦:男たちとミッション」は、陽気で愛国的な1971年国防省制作のドキュメンタリで、これらの兵器の除去について詳述している。次で見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=ApT4-zKF8OY

(21)Buckingham, 188.

(22)“Evidence for Agent Orange on Okinawa”, The Japan Times, April 12, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/fl20110412zg.html
[22訳者注]日本語訳は次でどうぞ。
http://www.projectdisagree.org/2011/12/2011412.html

(23)本論文執筆の時点で、軍用枯葉剤を直接に噴霧、貯蔵、輸送したという20人以上の元兵士が現れており、目撃証言はさらに多い。これらの元兵士たちのうち約75%は、VAへの補償要求が申請途中にあるうちは匿名での証言を求めた。全員が、政府担当部局のことを執念深く悪意があると表現している。ある元兵士は、体験を公にすればすでに受けているダイオキシンとは関係のない障害者恩給への影響は「壊滅的なものになるぞ」と言われたことを証言した。

(24)元兵士の主張を退ける際に、VAはしばしば、沖縄において米兵が噴霧した枯葉剤は、「購入可能な商品の除草剤」だったのだろうとの示唆を試みる。これによって、真実を故意に曖昧にしようとしていることが判る。元兵士は、噴霧用タンクは、ヴェトナムに移送されたのと同じオレンジの縞模様のドラム缶から直接に補充されたのだと言っている。VAはある元兵士に、1975年に彼女が吸い込んでしまった除草剤は、モンサント社のラウンドアップだろうと示唆した。これはその1年後まで商品化されていなかったものである。さらに、沖縄の元兵士が描写する軍用枯葉剤の使用法は、当時のヴェトナム全土で広く記録されているものとまさに同じである。けちなことで有名な軍隊が、すでに何千ガロンもの協力な(そして無害と考えられていた)枯葉剤が手中にあるのに、除草剤に余計な金を使うものか、と考えてみればよい。

(25)読谷軍用犬訓練所の周囲への枯葉剤噴霧の証言は、驚くべきことに、1990年の米軍用犬に関する報告書による。この調査は、米国内、ヴェトナム、沖縄で死亡した犬の睾丸の癌の比率を比較している。報告書では、ヴェトナムで死亡した犬は、米国内のそれと比べて睾丸への癌の発症率が1.8倍であったが、沖縄ではさらに高率の2.2倍だった。Howard M. Hayes et al., “Excess of Seminomas Observed in Vietnam Service U.S. Military Working Dogs”, Journal of the National Cancer Institute, Vol 82, Issue 12.

(26)Stellman et al., 685.

(27)Griffiths, 166.

(28)“Agent Orange Buried on Okinawa, Vet Says”, The Japan Times, August 13, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/nn20110813a1.html
[28訳者注]日本語訳は次でどうぞ。
http://www.projectdisagree.org/2011/08/agent-orange-buried-on-okinawa-vet-says.html

(29)Buckingham, 169.

(30)「枯れ葉剤9施設で使用 元在沖米軍人証言」『沖縄タイムス』2011年8月6日。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-08-06_21694/

(31)『琉球新報』紙で区域の数が異なるのは、VAの却下記録の計算に基づいているためである。前日の『沖縄タイムス』紙記事は、筆者の発言を元にしている。「60-70年代、枯葉剤8施設で使用 元在沖軍人、被害認定求める」『琉球新報』2011年8月7日。

(32)「基地内の調査必要」『琉球新報』2011年8月7日。

(33)「親子2代疾患に悩む」『琉球新報』2011年8月7日。
[31-33訳者注]新報のサイトからは取り下げられていて、リンクが切れている。

(34)「ベトナム戦時『米軍、沖縄の施設に枯れ葉剤』」『朝日新聞』2011年8月9日。
http://www.asahi.com/national/update/0809/SEB201108080053.html

(35)「検証動かぬ基地 vol.100 枯れ葉剤と沖縄の関係」琉球朝日放送『ステーションQ』2011年8月9日放送。
http://www.qab.co.jp/news/2011080930040.html

(36)「外相、米に事実照会 枯れ葉剤使用」『沖縄タイムス』2011年8月10日。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-08-10_21904/

(37)“Agent Orange Buried on Okinawa, Vet Says”, The Japan Times, August 13, 2011.
http://www.japantimes.co.jp/text/nn20110813a1.html
[37訳者注]日本語訳は次でどうぞ。
http://www.projectdisagree.org/2011/08/agent-orange-buried-on-okinawa-vet-says.html

(38)「退役軍人証言『北谷に枯れ葉剤埋めた』」琉球朝日放送『ステーションQ』2011年8月14日放送。
http://www.qab.co.jp/news/2011081430124.html

(39)“Okinawan mayor urges probe into Agent Orange allegations”, Stars and Stripes, August 19, 2011.
http://www.stripes.com/news/pacific/okinawa/okinawan-mayor-urges-probe-into-agent-orange-allegations-1.152587


(40)フェイスブックのコミュニティ“Agent Orange on Okinawa”のリンクは以下。
http://www.facebook.com/pages/Agent-Orange-Okinawa/205895316098692

(41)南ヴェトナムのダイオキシン・ホットスポットの特定と浄化に関する概要は、次を参照。
http://www.aspeninstitute.org/policy-work/agent-orange/cleaning-dioxin-contaminated-soils

再掲載「沖縄におけるエージェント・オレンジの証拠」2011年4月12日

古いGPサイトに投稿した翻訳ですが、参照のしやすさを考慮してこちらに再掲載します。


沖縄におけるエージェント・オレンジの証拠:米退役軍人たちが、その健康被害と正義の闘いを語る」
ジョン・ミッチェル
2011年4月12日
『ジャパン・タイムズ』への特別寄稿
http://www.japantimes.co.jp/text/fl20110412zg.html


1960年代末、ジェイムズ・スペンサーは沖縄の軍港で働く米海軍の港湾労働者だった。「この頃、私たちはあらゆる種の積荷を扱っていました。オレンジの縞模様の入ったこの缶も含まれていました。荷下ろしのときに、それがこぼれて、「エージェント・オレンジ」[Agent Orange: ヴェトナム戦争時、米軍が使用した枯葉剤のひとつ]をかぶっていたのでしょう。まさに雨を浴びるようにね」。

1965年から1967年の間、ラマー・スリートはこの島のキャンプ・クエの衛生兵だった。「エージェント・オレンジは嘉手納(空軍基地)に貯蔵されていて、沖縄の植生管理に使用されていました。私は個人的に軍病院のグラウンドの周囲で噴霧作業班を見かけたことがあるし、服に枯葉剤が染みこんだ作業員がER(救急救命)に運び込まれたときに、その場に立ち会ったこともあります」。

1970年、ジョー・シパラは、沖縄本島中部にある泡瀬通信施設に勤務していた。「アンテナは『ミッション・クリティカル』[mission critical: 24時間365日稼働を要求される基幹的システム]に分類されていたため、周囲に雑草が生い茂ることは許されません。数週間おきにトラックが来て、この施設のエージェント・オレンジの缶を充填していました。それを混合して境界線のフェンス周辺の雑草に噴霧するのが私の担当でした」。

『ジャパン・タイムズ』紙のためにインタビューに答えたこの3人の退役軍人だけでなく、退役軍人管理局(V.A.)の記録には、1960年代末から1970年代初頭にかけて沖縄で使用されたエージェント・オレンジについて、数百に上る同様の証言が存在する。当時、この島は米国支配下にあり、ヴェトナムにおける米国の戦闘の前線基地としての役割を担わされていた。これらの証言が明らかにするのは、ダイオキシンを含む枯葉剤が、戦闘地域に移送される前に、沖縄に大規模に貯蔵されていただけでなく、軍事施設の除草や、北部の山原(やんばる)のジャングルでの実験に定期的に使用されていたという事実である。

島におけるこの長期で広範囲にわたるエージェント・オレンジの使用は、それを取り扱った兵士の多くに深刻な病状をもたらした。スペンサー、スリート、シパラは、現在、癌、2型糖尿病、虚血性心疾患など、止めどなく続くダイオキシンにまつわる症状に悩まされている。さらに、シパラの死産となった最初の子は、赤ん坊が日の目を見なかったことを感謝するべきだと医者に言われるほどの奇形で、生誕したふたりの子どもはエージェント・オレンジによる中毒症状と合致する奇形に冒されている。

もしもかれら退役軍人たちが、ヴェトナムで[枯葉剤を]浴びていたならば、米国政府は有害な枯葉剤に接したすべての兵士を承認しているため、V.A.による医療費の補助を受けることができただろう。しかし、かれらは沖縄で被害に晒されたために、その補償要求は、この島でのエージェント・オレンジの存在を認めない国防省のために、繰り返し拒絶されてきた。2004年7月、統合参謀本部議長リチャード・マイヤーズ大将が、政府の「記録には沖縄におけるエージェント・オレンジやその他の枯葉剤の貯蔵や使用を裏付ける情報は一切ない」と発表したのは、こうした姿勢を示すもっとも最近の一例である。

このような否定のために米退役軍人がV.A.から補償を勝ち取るのが困難になっている。シパラの例は、退役軍人が向き合う困難を如実に示している。彼の軍命令書は、当時かれが沖縄に駐留していたことを示しているし、彼の病歴は、ダイオキシン被曝の症例に合致する。バイクに乗ってエージェント・オレンジの缶の横を通り過ぎる彼の写真は、決定的証拠として、彼のケースが退役軍人たちを代表すべきことを物語っている。

11ヶ月に及ぶ協議の後、V.A.は、二つの根拠を挙げてシパラの要求を拒絶した。第一に、被曝によって病気が進行したという証拠がない。シパラはこれに反論している。「沖縄から帰還した直後に糖尿病を発症したことは、私の医療記録から明らかです。なぜその当時の医者は、それがエージェント・オレンジによるものだと言わなかったのでしょうか。それが1970年のことで、まだ誰も被曝の危険性についてよく知らなかったからです。」

第二に、V.A.は、「日本の沖縄における、あなたの隊の兵員による、エージェント・オレンジの噴霧、試験、貯蔵に関するいかなる証拠も見つけることができなかった」と言った。

この言葉は、V.A.が却下する際に共通の表現で、そのことが、シパラを困惑させた。「記録がないからという理由で、どうして却下しつづけられるのか、理解できない。だれでも枯葉剤を使っていた沖縄で、1998年裁定が当てはまるのは限られたひとつの例だけだなどと誰が信じると思うのか。」

シパラが言っているV.A.の裁定というのは、2007年に報告され世界的なニュースになったものだ。1998年1月付けで、1961年から62年の間に沖縄の路肩に噴霧しトラックで運搬したエージェント・オレンジを浴びたと主張した退役軍人の事件に関する1998年1月付けの裁定のことである。兵士はそのために前立腺癌を患った。退役軍人の側に立った、V.A.は「この退役軍人が沖縄で軍務中にダイオキシンに晒された可能性を根拠づける信頼できる証拠がある」と退役軍人の側に立つ結論を出したのである。

この裁定は、最終的に米軍がこの島でエージェント・オレンジを使用したことを認める道を拓くだろうという期待をもたらした。今日に至って、しかし、1998年裁定は、沖縄駐留軍人のうちただひとつの成功例にとどまっている。何年にもわたってV.A.は、先の決定は判例として確立していないと、何百という同様の要求を却下している。2010年のある却下の文書には、「それぞれの事件は、個別の事実に基づいて決定される」なる文言が書かれていた。

しばしば、V.A.は、エージェント・オレンジの使用に関して手書きの文書証拠を求める。そのような文書は、しかし、追求不可能であることが判る。化学品を浴びた兵士の入院記録が事件直後にいかに紛失するものか、スリートはよく知っている。シパラは、「手書きの命令書など存在しない。我々は何をしろと口頭で言われ、それをしたのだ。国防省は起こったことを簡単に忘れることができるような仕組みになっているんだ」と言い足した。

当時の軍事行動の機密度が、退役軍人が沖縄についての情報を入手することをいっそう困難にしている。たとえば、1960年代を通じて、アメリカが生物化学兵器を貯蔵していただろうと沖縄住民は考えてきた。しかし当局は1969年になって、神経ガスが漏れ23名の米兵が負傷するまで、この主張を認めなかった。この事件をめぐる国際的な非難の高まりを背景に、軍は、レッドハット作戦を実行した。1万2000トンもの毒ガス兵器を沖縄から太平洋の真ん中にあるジョンストン島へ移送する、8ヶ月に及ぶ作戦である。

退役軍人の多くは、軍が、エージェント・オレンジの備蓄の大部分もレッドハット作戦の間に同時に移送したと信じている。かれらの推測がどうやら正しいことを示すのは、「レッドハット作戦の記録が、1969年8月から1972年3月にかけて、沖縄に枯葉剤が貯蔵され、後に廃棄されたことを示している」という2009年のV.A.の裁定だ。

マイヤーズの2004年の否定と直ちに矛盾するこのような文書は、救済を求める退役軍人をいらだたせ続けている。しかし、楽観できる見通しもある。2000年まで、米国政府は、軍による枯葉剤使用はヴェトナムのみだったとしてきた。しかし、1968年から1971年にかけて、韓国の非武装地帯での使用を証拠が明らかにし、当時そこに駐留していた退役軍人にダイオキシン関連の医療費支給が認められた。同様に、グアムにおけるエージェント・オレンジ被曝の退役軍人を支持するV.A.の裁定に引き続き、バラク・オバマ大統領は、軍隊の枯葉剤配備地域のリストにミクロネシア領を加えるよう求める圧力をかけられている。

沖縄を、この増え続けるリストに加える可能性について問われた際に、ヴェトナム戦争海軍退役軍人会の議会における代弁者であるジェフ・ディヴィスは、三方向による取り組みを実施するよう助言した。

「第一に、噴霧器を背負ったり、トラックに積み込んだり、ヴェトナムを往復する輸送船からの積み込みや積み卸し作業を補助したということを証言する個々の宣誓供述書。次に、沖縄に駐留した退役軍人の間に、エージェント・オレンジ関連と公認されている一連の疾患の罹患率が非常に高いという調査。最後に、科学的根拠、すなわち、ダイオキシンの存在を示す飲料水や土のサンプル(を集める必要がある)」。

この最後の点は、退役軍人たちに枯葉剤関連の疾病を証明できる希望の道を拓く。しかし、それは同時に、恐ろしい予想を招来する。ダイオキシン被曝は、現在駐留中の米兵とその家族たちにも及んでいるかもしれないということだ。退役軍人の説明でもっとも多く言及される地域は、嘉手納空軍基地と、北部訓練場で、現在もなお、米軍の管理下に置かれ続けている場所である。皮肉にも、このことは、危険性をアメリカ管理地域に閉じ込めることによって、沖縄の市民の大多数を、ダイオキシン被曝から守っていると言えるのかもしれない。2009年、科学者たちは、ヴェトナムで、戦中に米国がエージェント・オレンジを貯蔵していたダイオキシン危険地帯を発見した。正確に類推するならば、沖縄の現在の基地は、軍の枯葉剤によって重度に汚染されたままということになるだろう。

いずれにしても、政府が、かつて国に仕えた人々への義務を無視し続ける間に、V.A.に要求を拒絶され続ける何百という退役軍人たちが、いっそう病に冒され続ける日々が続くのだろうと、シパラは考えている。「退役軍人の間では、V.A.の非公式のモットーとは『認めない、認めない、彼らが死ぬまで』だと言われている。政府にかれらが行ったことを認めさせる唯一の方法は、私たちがもっとたくさん立ち上がって、世界に向けて自分たちのことを話すことだ」。

本稿発表の時点において、『ジャパン・タイムズ』のコメントの要求に対し、米国退役軍人管理局も、国防省も、無回答のままである。

沖縄とエージェント・オレンジに関する経過
1952 サンフランシスコ条約で沖縄は米国管理下に
1962 米空軍、沖縄で米の収穫に生物兵器実験
1963 米輸送船、おおよそ1万2000トンの生物化学兵器を沖縄に搬入
1969 嘉手納空軍基地で神経ガス漏れ、23人の米兵が病院へ
1971 レッドハット作戦、生物化学兵器の在庫をジョンストン島へ移送
1972 沖縄の施政権が日本へ返還される
1998 V.A.沖縄のエージェント・オレンジ被曝を主張する退役軍人に賠償
2004 米政府、沖縄におけるエージェント・オレンジを否定
2009 V.A.決定、レッドハット作戦にエージェント・オレンジが含まれていたことに言及

12月17日・18日、プチ帝都に出前

「地下大学goes to 経産省前テントひろば」にお邪魔します。高江が世界中のテントとつながりますように。
※写真は昨日の県庁前集会。やんばるから来た人はすぐに判るのダ!

20111207

12月7日女たちの抗議集会

お知らせ来ました。
「女性たちの」っつーのは、主催者が女性ということなのであって、すべてのヒューマンに呼びかけられておりますよー。
集会名:沖縄侮辱発言と米軍基地の押し付けを許さない女性たちの抗議集会

前沖縄防衛局長の県民および女性に対する侮辱発言に抗議し、
政府の真の謝罪として、辺野古新基地建設の撤回を求めます。

日時:12月7日 午後7時から8時半
参加費:300円

場所:教育福祉会館

20111206

12月8日は合意してないシンポ

 2011年11月29日、田中沖縄防衛局長によるレイピスト発言が紙上で報道され、その日のうちに彼は更迭された。
 「犯る前に、犯ると言うか」というこの発言を私たちは単なる「失言」で終わらせるわけにはいかず、あるいは「女性を侮辱した不適切な発言」という紋切り型の非難を浴びせてすませることも、もはや不可能である。
 沖縄をレイプする日本という構図が露呈したいまこそ、私たちは男根主義とミソジニーに抗しながら豊かに饒舌に抗議と解放の言葉を紡がなければならない。

 これは言説の闘争である。

「オキボー局長レイプ発言に合意してない」緊急シンポジウム
とき:2011年12月8日(木)18:30より
ところ:琉球大学法文学部201教室

主催:合意してないプロジェクト
projectdisagree(at)okinawaforum.org

20111205

12月14日高江SLAPP訴訟、那覇地裁で結審見込み

那覇地裁にも、高江の現場にも行きましょ−!
来週、高江SLAPP訴訟の第10回口頭弁論が開かれます。
今回の期日で高江住民弾圧裁判は結審となる見込みです。

期日 : 12月14日(水)
場所 : 那覇地方裁判所
9:30  事前集会(那覇地裁前広場)
10:10  傍聴整理券の配布と抽選
10:30  開廷
閉廷後 報告集会

多くの皆様の集会、傍聴参加をお願いいたします。

高江では緊張が続いています。
裁判期日に工事を強行された事もあります。
現場での支援を、合わせてお願いいたします。

※右画像は屋嘉そば。辺野古経由で東海岸に向かうときの腹ごしらえポイント!

20111204

12月の辺野古・高江カー情報


平和な市民の2011年12月分辺野古・高江カー情報届きました。

・12月8日(木)、3名  ・12月9日(金)、5名 ・12月10日(土)、5名  
・12月14日(水)、5名 ・12月15日(木)、5名  ・12月17日(土)、5名 
・12月21日(水)、3名  ・12月23日(金)、5名 

1.送迎車は、「那覇インター前バス停」で待機しています。同バス停を9時に出発して、同乗者の希望により高江・辺野古まで行きます。高速内のバス停での途中乗降車も可能です。
2.同乗希望者は、必ず長嶺(090-2712-6486)または城間(080-1782-6598)へ事前に連絡して下さい。
3.沖縄平和市民連絡会では、この行動の定期化のため、カンパを募っています。カンパの宛先は、『(口座番号)は01710-5-88511』『(加入者名)は平和市民連絡会』『通信欄に辺野古・高江行きカンパ』と記入ください。

カクマクくんの新譜!Image Nothingを聞きながら、もうすっかり冷たくなった風を受けてドライブ。「会いに行くから、じゃぁ、それまで、お元気で」

20111202

高江の署名は12月5日(月)締め切り

12月14日に期日を迎える高江の裁判。署名用紙がまだお手元にある皆さんぜひ今週末で投函を

「ヘリパッド建設中止と起訴取り下げを求める署名」につきまして、みなさまには大変ご協力頂いてきましたが、呼びかけて下さったなはブロッコリーさんから連絡がありました。12月14日に那覇地方裁判所での審理が結審する見通しですので、この期日を、ひとつの区切りにさせていただくため、

2011年12月5日(月)
を集約の最終締切とさせて頂きたいと思います。

集約宛先は以下です。
なはブロッコリー
沖縄県那覇市久茂地 3-29-41 久茂地マンション 401

少し、急なことで恐縮ですが、目下、ヘリパッドいらない弁護団の皆さんが最終書面の準備で頑張って下さっています。私たちも清新な気持ちで胸を張って、12月14日の期日を迎える所存です。

皆様のご支援を、どうぞ宜しくお願い致します。

本日18時、県庁前!

Begin forwarded message:
日時: 2011年12月2日 11:25:57
件名: 一川防衛大臣来沖抗議行動について

平和市民連絡会事務局

皆さんへ
 一川防衛大臣が今日来沖して、仲井真知事と午後7時過ぎから会談するとのことで、平和運動センターから午後6時から県民広場で抗議集会を開催して県庁入り口で抗議行動をするとの連絡がありました。平和市民連絡会も呼応して抗議の行動を行うことにします。超緊急ですので各自連絡をとり合って広げてください。

八重山教科書の書名、拡散お願い!沢山お願い!

文科省もまた、沖縄で国境線を顕現させようと騒ぎを起こそうとしています。
うかうかしてると、後になって「あれが戦争の準備の始まりだった」とため息混じりに語らうことになっちゃうのか。それとも、ずっと先に反省することが判っているなら、今のうちに!
件名: みなさま再度のお願い
みなさま
先日、八重山の署名をもう少し集めていきたいという話になりました。
全体で1万は超えてきていますが、それでももっと多くの声を集めて文科省に届けたいということになっています。

現在、12月上旬に予定されている文科省要請において、署名をとどけて要請し、院内集会も開催したいということで動いております。
そのため、再度署名の拡散をお願いいたします。
石垣では、街頭での署名も実施してがんばっています。ぜひご協力をお願いいたします。
なお、オンライン署名の場合には下記からお願いいたします。
http://www.shomei.tv/project-1871.html

20111201

12月8日「オキボー局長レイプ発言に合意してない」

「オキボー局長レイプ発言に合意してない」
緊急シンポジウム開催のお知らせ

◆12月8日(木)18:30- 
◆琉球大学法文学部201教室にて

◆パネリスト(予定)
 高里鈴代(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)
 新城郁夫(琉球大学法文学部教授)
 阿部小涼(琉球大学法文学部准教授)
 田崎真奈美(琉球大学大学院修了生・MONACA)

沖縄防衛局長のオフレコ発言によって、日本政府の沖縄に対するレイプ的暴力が露呈した。
このような暴力に、さて、私たちはどのように対抗するのか。
抗議集会に参加するとか、オキボにFAXジャミングをしかけるとか。
いいね!(ボタンをポチッと)とか。

でも日本政府が矮小化をたくらんでいるときには、むしろ問題を拡散的にあぶり出してみるのがいい。
そう。あらゆる角度からの抵抗をカタチにするときが来たのかも!
マイ抗議声明や、これからのアイディアなど持ち寄って、大いに討論しましょう。
皆様お誘いあわせて、お集まり下さい。


主催:合意してないプロジェクト
projectdisagree@okinawaforum.org

「これは言説の闘争である」抗議声明by合意してないプロジェクト


これは言説の闘争である。

2011年11月29日『琉球新報』の報道で明らかになった田中聡沖縄防衛局長のレイピスト的発言は、前例のない早さで対応が検討され、その経過もまたこれまでにないほど刻一刻のスペクタクル的報道で伝えられ、その日のうちに、「女性や沖縄を侮辱する不適切な発言」(『沖縄タイムス』Web版11月29日20時43分ほか)のため局長は更迭となった。

単なる不適切発言では済まされない。それ以上に、日本政府の対処は、問題のすり替え、局所化、矮小化に他ならない。局長の更迭を言う藤村修官房長官はその舌の根どころか舌先も乾かぬ口で、環境影響評価書の年内提出、辺野古への基地建設について「進める」と明言した。田中氏の言葉を使うなら「犯(や)る」ということだ。ここにおいて田中氏の発言は個人の見解がリークされた不幸な失言ではなく、日本政府による沖縄への基地負担の強要がまさにレイプそのものであることを、直裁に発言したに過ぎないことが了解できよう。これまで度重なる米兵によるレイプ、轢殺、大学キャンパスへのヘリ墜落と現場の制圧[1]など米軍による抑圧のなかを生き抜いてきたこの沖縄で、今日ついに、沖縄をレイプするものとしての日本が、その輪郭をあからさまにしたのである。

この発言は、八重山地区での強権的な教科書選定という脱法状態、反対する地区に教科書の有償を強迫する憲法の剥奪状態[2]、与那国へ自衛隊配備を強要する「国境の顕現」状態[3]、地位協定の改定を拒む日米政府による沖縄の例外化状態[4]という文脈のなかで、まさに起こったのであり、拡散的で持続的な抗議こそが相応しい。

そして、この問題の本質をもっとも端的に表していたのは、東村高江の状況である。

直前の11月25日、高江のヘリパッドもといオスプレイパッド建設について田中氏は「北部訓練場の過半を返還するためにやっている工事で、反対だということ自体、正直言って私には合点がいかない」と発言したことが報道されている。ここ数週間、防衛局が高江に対して行っているのは、抗議する住民の犯罪者化であり、裁判所の悪用では飽きたらず、警察権力を行使するよう沖縄県警に圧力をかけていることは一目瞭然の事実である。にもかかわらず、レイピスト発言が問題化した今日も、防衛局は臆面もなく高江で工事を強行しようとした[5]。

すなわち、今回の発言のみによって防衛局長の糾弾を終えてはならず、また、防衛局長個人の過失や舌禍としてのみ、この問題を収束させてはならない。抵抗を黙らせ、抵抗を黙殺し、抵抗を否定し、抵抗を力でねじ伏せたうえで、事後的に「合意のうえだった」と言う準備をしている[6]。まさにレイプの構造そのものではないか。だから私たちは繰り返し言い続ける、「合意してない」と。

そもそも防衛局が主催する報道陣との居酒屋懇談会と、そこで交わされるオフレコの談話とは一体どのような空間なのか。「酒席でこそ重要な話を聞ける」とあざとく期待するジャーナリズムと、そういう関係づくりによって「ネタ」のリークをコントロールできる気になっている防衛行政の双方によって共犯的に温存されている空間だからこそ、このミソジニー的発言は露出したのだということを、確認しなければならない[7]。

仲井真沖縄県知事は当初、コメントを拒否する意図を表現するのに「口が汚れる」と語ったと報道された。痛烈な一矢を放ったつもりかもしれないそのナイーヴな言葉の選択こそは、セカンドレイプの言説構造として指弾すべきものである。レイプによって汚されるものはなにか。沖縄の戦後史に折り重ねられてきた、幾多の犯された身体は、「汚れた」ということばによって封印され、沈黙を強要されてきた。いまこそ、この暗い封印は解かれなければならないのであって、豊かに饒舌に抗議と解放の言葉が紡がれなければならない。

また私たちは、この報道が支えている男根主義的な言論に対し遅滞なく強い異議を唱える。曖昧さと表現の揺れを含みながら様々な報道や発言のなかで伝えられた「犯す」「やる」「男女関係」などの語において、犯されるものとして対象化されたのは当然のごとく「女」だった点を見逃すことは出来ない。あらゆる報道と発表は男の側に立ち、「女性をさげすみ」と書くことで自分自身が犯されている恐怖をやり過ごしながら、女に対するレイプの話でこそ「怒りのマグマ」が起ち上がるという男根主義を露呈した。1995年の事件を引き合いに出す、そのディスコースから、私たちは離脱する必要があるだろう。1995年を参照するならば、それは同様の失言が繰り返されてきたとの指摘や、「女性差別」というステレオタイプ化した非難ではもはや充分ではない。1995から私たちが学んだものは、軍隊と性暴力についての根本的な問いかけであり、運動の内部に誕生した新しい運動であり、沖縄の外へと開いて結ばれる運動のつらなりであったはずだ[8]。

だから、こんな時には、具体的な抗議の声はいつも「怒りのマグマ」ではなく時宜を得た女たちの発言であることを、即座に思い起こしておこう。相応しく抗議したとき、それをつぶしにかかる男根主義的言説空間は沖縄の社会のなかにある[9]。「守ってやる」=「いつでも殺/犯/やるぞ」の構造は沖縄における安保体制そのものが植民地主義でありレイプの構造であることを雄弁に物語る。そこに裂け目、亀裂を入れる声を、私たちはいつも、何度でも、思い起こさなければならない。そして「女」ということばが能動的に駆動し意味を持ち始めるのはいつもこのような瞬間なのである。

私たちは言説の闘争のただ中にある。

メア発言があらわにした米国の、そしてこのたびの防衛官僚による日本の植民地主義と同時に、この共犯的な男根主義そのものを覆さなければ、沖縄における反基地運動の意味が深められることはないだろう。

2011年11月29日
合意してないプロジェクト
(以下、賛同人名は随時追記します。)
阿部小涼 新城郁夫 岡本由希子 田崎真奈美 田仲康博 徳田匡 森啓輔 柳田敏孝 坂下史子 大城永子 多田治 渡真利哲 内海恵美子 村上陽子 浦崎成子 戸邉秀明 若林千代 佐藤泉 木村厚子 松田潤 大胡太郎 安部真理子 児島博紀 仲渡尚史 吉田裕 松川莉奈 西脇尚人 平井玄 首藤久美子 秋林こずえ 鳥山淳 小池まり子 黒澤亜里子 須藤義人 西泉 東琢磨 岡本由希子 萩谷海 森美千代 殿平有子 道面雅量 福永貢介 福永恭子 大野光明 堀真悟 我部聖 土井智義 持木良太 當山和美 上原こずえ 横山正見 桑江彩子



<注記>
[1]調査可能な範囲でまとめられた資料として、基地・軍隊を許さない行動する女たちの会編『沖縄・米兵による女性への性犯罪(1945年4月-2001年6月)』第6版がある。沖縄国際大学ヘリ墜落事件については、黒沢亜里子編『沖国大がアメリカに占領された日:8.13米軍ヘリ墜落事件から見えてきた沖縄/日本の縮図』青土社2005年。
[2]八重山教科書問題については(ニュース検索結果を表示)。
[3]与那国への自衛隊配備については(ニュース検索結果を表示)。
「国境の顕現」状態とは、屋嘉比収『沖縄戦・米軍占領史を学びなおす:記憶をいかに継承するか』世織書房2009年の第11章タイトルから着想した。占領米軍政府が、与那国と台湾とのあいだに、そこに暮らす人びとの実感とはかけはなれた国境線を顕現させ、「沖縄の対内的安全保障の確保を説きながら、新たな国境線を再構築した」と分析している。今日の与那国への自衛隊配備の文脈を考えるうえで想起すべき語である。
[4]地位協定改訂に関する2011年の大きな焦点は、交通事故を起こした「公務中」の軍属の起訴に関する見直しだった。2011年1月の與儀功貴さん轢殺事件を受けて日米地位協定の見直しが要請されてきたが、日本政府は「運用見直し」にとどまっている。この間、しかし、裁判権についての米側の規定との解釈差が明らかにされつつある。一例として、「軍属裁判権は接受国優先 米法に明記」『沖縄タイムス』2011年12月1日
[5]東村高江の現状blog http://takae.ti-da.net/
[6]レイプ発言と同月の11月17日、田中防衛局長はキャンプ・シュワブを受け容れざるを得なかった辺野古の過去に言及しながら、「地元中の地元は、自分たちの条件を認めれば容認すると決議している」と発言している。「辺野古区は反対せず 防衛局長、地元理解で強調」『琉球新報』2011年11月17日。大西照雄氏はblogでこの点を今回発言と的確に結びつける指摘を行っている。
[7]最初の新報の報道は発言内容を「これから犯すまえに「犯しますよ」と言う人はいない」としていた。じっさいに起こるレイプは、むしろ「抵抗すると殺すぞ」「周りにバラすぞ」という深刻な脅迫を伴うものではないだろうか。つまり発言そのものが、レイプ神話の上に成り立っていて、それこそがミソジニーの存在を暴露しているのではないか。それをレイプの比喩として「了解」してしまった居酒屋の取材という会話空間の共犯関係への批判も含めて指摘しておきたい。
[8]事件を契機に「基地・軍隊を許さない行動する女たち」が誕生し反軍事主義の国際ネットワークを構築するに至っている。
[9]たとえば次のような発言を想起する必要がある。
私は被害者の1人として訴えます。私は、高校2年生のときに米兵によるレイプを受けました。学校帰りにナイフで脅され、自宅近くの公園に連れ込まれ3人の米兵にレイプされたのです。本当に怖かった。「もう終わりだ、自分は死ぬのだ」と思いました。何度叫ぼうとしても声も出せずにいました。そのとき米兵は「I can kill you」と言いました。「殺すぞ」ではなく、「殺せるぞ」と言ったのです。(稲嶺知事[当時]への公開質問状、『沖縄タイムス』2005年7月9日。)

「事件が起きた時、ある意味死んだようなものだった。外相発言でもう一度つぶされたというか、極端に言えば死ねといわれたような、気持ちになった」。「被害に遭っても黙っておけということだと思った。これがセカンドレイプというものだと思う」。「国のために国民があるのか、国民のために国があるのか。沖縄の歴史の中で、軍隊は一度も住民を守ったことはない。それなのに国民は平和であるというなら、平和でない状況にいる沖縄の人は、国民じゃないということでしょうか」(町村外相[当時]への最後の手紙、『沖縄タイムス』2005年7月15日。)

県議会(仲里利信議長)の2月定例会は26日、一般質問2日目の質疑が行われたが、米兵女子中学生暴行事件をめぐり比嘉京子氏(社大・結連合)が仲井真弘多知事に対し「知事は言葉で少女をセカンドレイプしている」と発言したため、与党と執行部が一斉に「不穏当発言」と反発。午後5時すぎから4時間半、議会が空転する事態となった。空転は2006年6月定例会以来で、仲井真県政では初めて。比嘉氏は「知事の人格と議会の品位を著しく傷つける不適切な発言だった」と謝罪し、発言を撤回して事態は収拾された。
比嘉氏は知事が「アジア太平洋地域の安全と少女の安全を守ることはどちらが大切か、これは選択できるようなものではない」と答弁したことに対し、「県民の人権を預かる最高責任者としての認識が欠落している」と指摘。「セカンドレイプしている」と発言した。(『琉球新報』2008年2月27日。)