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20120808

グアムと沖縄>ジョン・ミッチェルJapan Times枯れ葉剤報道第11弾


 同じくジャパンタイムズ紙8月7日に掲載されたもうひとつの記事。グアムと沖縄を枯れ葉剤問題という断面で比較すれば、通底する困難、共有すべき課題が明らかとなる。
 このような視角に立てば、海兵隊の移設先としてではなく、冷戦の過去の矛盾を等しく押しつけられてきた地域、今日の米国の「アジア太平洋」地域戦略という枠組みによって、都合よく捨て駒にされる地域として、すなわち、そこから共に抗するための協働性を見出すべきカウンターパートとして、見ることが可能になるのではないか。
 「ゴーディアスの結び目」とは解けない結び目のこと。アレクサンダー大王は結び目をほどく手間をかけずにバッサリと切ってアジアの覇者となったとの故事に由来する。帝国によって切断されるのではない運命を、アジアは想像してゆけるだろうか。



ジョン・ミッチェル「太平洋の毒物:グアム、沖縄、枯れ葉剤」『ジャパン・タイムズ』2012年8月7日。

原文:
Jon Mitchell, "Poisons in the Pacific: Guam, Okinawa and Agent Orange," Japan Times, Aug. 7, 2012.

1968年、当時19才の軍曹リロイ・フォスターがグアムのアンダーセン空軍基地、太平洋最大のこの米軍駐留地に到着した翌日、彼は上官から「植生管理任務」を命ぜられた。

「ディーゼル燃料とエージェント・オレンジを混合して、ジャングルの茂みを除草するため基地中をトラックで散布してまわった。先輩兵はだれもやりたがらない仕事だったから、トーテムポールでいえば最下層にいる自分にお鉢が回ってきたってわけだ」とフォスターはジャパンタイムズ紙に語った。

[写真キャプション]虹の戦士:ラルフ・スタントン。現在は軍の枯れ葉剤使用について調査の先頭に立っている彼は、1969年か70年のある時期、グアムで勤務し、「虹色の除草剤」のひとつ、エージェント・オレンジに被曝したと考えている。写真提供ラルフ・スタントン。

軍務が始まったばかりの頃、フォスターは吹き出物や腫れ物が体中に出来、布団に擦れて出血するのが大変つらかった。その後は何年にも渡ってパーキンソン病、虚血性心疾患など病気の連続だった。これらの病状は散布を命じられた毒性の高い除草剤が原因だと考えている。フォスターはまた、エージェント・オレンジのダイオキシンはその被害が次世代の健康にも及ぶほど長期にわたるもので、彼の娘が10代にして抗がん治療を受けなければならず、孫の手と足は12指あり心雑音を持って生まれたことも、このダイオキシンの影響だと考えている。

だがフォスターは幸運なほうだと言える。グアムでエージェント・オレンジによる病気を訴える数百の元米兵がいるなか、フォスターはこの島での被曝を原因として政府から補償を受けているわずか5名のうちのひとりだからだ。残りの者たちは、記録には「グアムのどの場所においてもエージェント・オレンジのような戦略除草剤の使用・試験・保管を示すものはない」とペンタゴンが主張しているため、救済を拒否されているのである。

この否定の仕方は、ジャパンタイムズの読者には見慣れたものだろう。本紙は、もう一つの米軍の軍事拠点である沖縄においてもこの毒性化学品が使用されたとの疑いについて米政府の調査を行ってきた。過去18ヶ月間、何十人もの元兵士がヴェトナム戦中の沖縄における除草剤について発言してきた。これらの退役兵たちと、ときにはその子供たちも、ダイオキシン被曝を原因とする病気にかかっている。しかし、米政府はかれらのうち3名の被害しか認定せず、沖縄でのエージェント・オレンジ保管・埋却・使用を一貫して否認している。

米軍による毒物汚染がグアムと沖縄で併行して起こっていることは憂慮すべき事態である。第一にこれらの島にエージェント・オレンジが持ち込まれた原因は、その共通の歴史にある。2200キロメートルの距離を置いて西太平洋に浮かぶグアムと沖縄はどちらも、第二次世界大戦の悪夢のような戦闘の目撃者であった。グアムは、かつて米の輸出基地であり、1941年12月に日本に占領されて2年半の残虐な占領を受け、1944年7月、米軍によって解放された。日本の県である沖縄は1945年春、米兵に1万2000名の死者と4万人の負傷者を出す戦闘の末、米軍によって占領された。

沢山の米兵の血で贖われたふたつの島は、多くの米国指導者たちにとって、過酷な戦闘の戦利品として獲得した領土であるとの意識が染みついている。第二次大戦終結の後、二つの島は徐々に地球上で最も軍事化された場所へと変貌し、グアムは銛の切っ先("Tip of the Spear")、沖縄は太平洋の要石となった。

軍事評論家たちには好まれるとはいえ、このニックネームは、島に暮らす人びとに押しつけられた周縁的な地位を覆い隠すものだった。1950年にグアムは非併合領を宣言、島内の民政を認定するものの住民は大統領選挙への参政権を持たない、この制度は今日まで続いている。1945年から1972年まで沖縄はアメリカ支配のグレーゾーンのなかで、米国、日本いずれの憲法の保護も受けない状態に置かれた。この制度によって、軍はその行動の責任を問われずにすむことになったが、それは他地域では困難であっただろうことであり、有毒除草剤の使用もその範疇に含まれる。

ペンタゴン自体の記録によれば、1952年グアムに初めて保管された枯れ葉剤は、5000本のエージェント・パープルのドラム缶であった。いわゆる「虹色の除草剤」のひとつで、容器の周囲に描かれた識別色によって命名されたエージェント・パープルは、エージェント・オレンジに先行するもので、さらに毒性の高いものとして今日では知られている。米軍は朝鮮戦争で使用するためグアムに除草剤を持ち込んだ。だが配備前に紛争が停止し、米政府によれば、その後グアムから撤去されたという。

軍の除草剤使用の研究を主導するラルフ・スタントンは、1969年から1970年にこの島に駐留した期間に自身も被曝しており、この出来事についての政府版の発表に懐疑的である。「国防省は米国に戻ったドラム缶の記録を持っていない。だから、彼らの発表は神話か虚偽だと思う。1950年代、船舶輸送コストは除草剤よりも高く付くものだっただろう」。

最初の在庫の行方とは関係なく、スタントンの調査で明らかになったのは、1960年代から70年代、米国がヴェトナム戦争に関与するにつれて、軍用除草剤は定期的にグアムで散布され、島を経由して東南アジアに向かい、敵地の食糧収穫や身を隠すジャングルを枯渇させる目的で大量に使用されたということである。ヴェトナムだけでも、赤十字の推定で300万の人々が今なお、この薬剤の影響による病状に苦しんでいる。

1970年代初頭に第43輸送部隊でグアム任務に就いたエドワード・ジャクソンによれば、これらの除草剤はよく目にするものだったという。「アンダーセン空軍基地にはエージェント・オレンジやその他の除草剤の大量の在庫があった。何千ものドラム缶があった。海上輸送のため海軍基地によく運んだよ」と、ジャクソンはジャパンタイムズ紙に語った。

これらの薬剤の毒性について知り得ている現在では、兵士たちは防護服を着て作業に当たっただろうと想像しがちである。だが軍と製造会社は何年もその危険性についての調査を抑え込んだ。「エージェント・オレンジは歯磨きに使っても大丈夫なくらい安全だと言われた」、スタントンは語る。

これら除草剤の取扱いだけでなく、処分もいい加減に行われた。ハンビー飛行場(現在の北谷町)、嘉手納空軍基地と海兵隊普天間飛行場に埋却したと元兵士が主張している沖縄と同様に、グアムの元兵士も同様の慣例に従ったと語っている。

ジャクソンによれば、除草剤のドラム缶は輸送中に破損することもあったので、アンダーセン空軍基地に放棄した。「トラックを、太平洋に落ち込んでいく小さな崖までバックさせた。私は自分で25本は捨てた。ドラム缶は殆ど空のものから、満タンのものまでいろいろあった」とジャクソンは説明する。

[写真キャプション]猛毒の遺産:米空軍退役兵のリロイ・フォスターが2010年、生まれて間もない彼の孫娘を抱いている。生まれたとき手と足に12本の指があり心雑音もあったが、この障がいは1960年代末に彼がグアムでエージェント・オレンジ被曝したことが原因だと考えている。写真提供リロイ・フォスター。

1990年代、米政府はこの手法を摘発しジャクソンがドラム缶を投棄した場所の環境調査を実施したところ、非常に深刻な汚染が発覚し環境保護局(EPA)による緊急浄化のリストに加えられた。この小さな島全域にわたって100カ所の同様の汚染地が確認され、一カ所の土壌からは1万9000ppm(認識されている安全値1000pptと比較されたい)のダイオキシン汚染も見つかり、この地球上でもっとも汚染された土地のひとつになった。住民をさらに驚かせたのは、これらの場所の多くが、島の飲料水の供給源である北部のグアム帯水層に近接していたことだった。

2007年、グアム大学元教授のルイス・サイフレスは、島民は「事実上、あまねく場所で虹色の除草剤の霧のなかで」生活していたと警告する。グアム住民における鼻咽頭(上咽喉)癌と糖尿病罹患率の急激な上昇が、彼の推測に根拠を与えているようである。

今日、米政府は島の汚染地域の大半を浄化し終えたと主張している。だがグアム大学準教授のリサ・ナティビダードはこの点について確証できないと見ている。「彼らの浄化されているという定義は不正確であることが多い。そのため独立研究者に依頼して国の主張を検証する必要がある」、彼女はジャパンタイムズ紙にそう語った。

だが、グアムの人々は沖縄住民と比べれば幾分ましなほうだ。米軍のダイオキシンで汚染されてきた島の土壌と水の状態について故意に無視を決め込まれているのが沖縄だ。
繰り返し、日米両政府は島におけるエージェント・オレンジ汚染の調査要請を拒絶している。よく知られるところでは2011年11月、ヴェトナム戦争中にエージェント・オレンジを大量に保管していたと指摘するジャパンタイムズの報道を受けて、名護市住民がキャンプ・シュワブ付近の環境調査を求めたことがある。

闇に葬られ、現在沖縄に暮らす人びとは、島の基地で暮らす米兵とその家族もそこには含まれるが、汚染の可能性について思案するしかない。普天間飛行場は、グアムにおけるアンダーセン空軍基地との共通点から特に関心を持つべきだ。双方の駐留地は60年以上にわたって軍に使用され、軍用機が問題なく操縦できるようにと、エージェント・オレンジに限らず、危険な薬物が日常的に垂れ流されてきた。アンダーセンのEPA報告書は、鉛、PCB、ヒ素を含む32種の「懸念すべき汚染源」を明らかにしている。普天間は、アンダーセン同様、網状に広がる洞穴と地下水源の上にある。さらに憂慮すべきは、アンダーセンは人口密度の低い地域にあるが、普天間は9万4000人の人口を擁する宜野湾市の混み合う中心部に位置している。

普天間閉鎖をめぐる論争は16年にわたって続き、米日関係を緊張させ、沖縄の人びとは試練に耐えている。だがアンダーセンとの比較が正しければ、閉鎖後も普天間の浄化には数十億ドルが必要となるだろう。日米地位協定は環境浄化に関する資金負担を全額日本の納税者に負わせている。これほどの金額がかかるならば、東京が、普天間閉鎖について長期に及んで解決の糸口も見えないままに放置してきたことは、さして不思議ではない。

グアムと沖縄の運命は、数千人の米海兵隊員の移駐という、太平洋を舞台とする「ゴーディアスの結び目」に絡み取られてきた。ナティビダード准教授は、この計画でグアムの指導者たちはペンタゴンに島の汚染地域の完全閉鎖を要求しにくくなったと考えている。「前知事は再編計画を危うくしてはまずいと、ワシントンで波風を立てることを恐れていた。現在の知事はもう少し自信を持っているが、彼が許可を求めてワシントンに圧力をかけても、汚染地域は浄化されていますとの回答が文書で届いただけだった」。

アメリカがグアムと沖縄にエージェント・オレンジを持ち込んだ理由は、過去の冷戦に根ざしていることが今日では明らかである。だが、ふたつの島におけるこれら有毒物質の存在を認めようとしないワシントンの拒絶は、ますます信じ難いが、それは、21世紀におけるこの地域の軍事戦略という網の目にきつく編み込まれて起こっているのである。

「私たち退役兵は米日間の政治的駆け引きの捨て駒になってきた」と元空軍曹のジャクソンは言う。「私たちは死を待つ軍隊なのです」。

エージェント・オレンジについて更に詳しい情報は、ラルフ・スタントンの総合的なウェブサイト[http://www.guamagentorange.info/]を参照されたい。今年5月に琉球朝日放送はジャパンタイムズが報道してきた沖縄におけるエージェント・オレンジ問題に焦点を当てたドキュメンタリー「枯れ葉剤を浴びた島」を放送した。日本民間放送連盟のドキュメンタリー賞にノミネートされ、最終選考結果は9月に発表される予定である。感想とご意見はcommunity@japantimes.co.jpまでどうぞ。