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20121006

10月21日ぷち帝都で街頭の自由を

お知らせ頂きました。沖縄には街頭に国境が出現しますが、なにか?


討論集会「街頭行動の自由を考える」

1)パネルディスカッション:「この不自由の中から、何を実践するのか」
太田昌国(編集者)+木下ちがや(工学院大学非常勤講師)+桜井大子反天皇制運動連絡会)
2)映像サンプリング上映:「街頭の自由と不自由」
3)フリートーク                                    

日 時:20121021日(日)1500開場 15301930
場 所:一橋大学東キャンパス東2号館2201教室 資料代:500
連絡先:一橋大学鵜飼研究室 042-580-9034 
主 催:討論集会「街頭行動の自由を考える」実行委員会/
    震災・原発事故を考える会@一橋大学    gaitoukoudounojiyu@yahoo.co.jp
    排外主義者と警察への協力者の参加・立ち入りを禁止します。    

【罵倒の不自由ではなく、語り合い行動する自由を!】
▶私たちは「不自由」が充満した社会に生きている。飯も、着るものも寝るところも、働き遊ぶことも、むつみ合う歓びも、街頭で訴えることも、何ひとつ思うようにならない。できるのは、ネット空間で人を罵り倒すことくらい。名を隠して貧弱な雑言を競い合い、ささくれた熱狂を使い果たしては浅く眠る。これは果たして「自由」なのか? いや「監獄」である。原発震災はこの「監獄」のような不自由を剥き出しにした。だから、自己規制の壁を打ち破って人々は車道に溢れ出す。経産省前のテントに暮らし、官邸城の裏から叫ぶ。
▶官邸前で起きたことは「自制された蜂起」なのか、それともコントロールされたその紛いものなのか。そのどちらへ向かう可能性もある、と言おう。「不自由」を生むもう一つの源は、あの「白地に赤い丸」の旗である。原発からの自由を求める賑やかなデモの傍らには、あの旗の中毒者たちに襲撃されるデモがいつもあることを忘れるわけにはいかない。にこやかな警察官たちの腕づくの「誘導」と、旗に憑かれた者たちの突撃が重なり合うところにこそ「不自由」の全体像があるだろう。
▶それでも、命が危険にさらされる時、人々の中から自然な「法」が立ち上がる。原発震災から600日、それぞれの場所から「街頭行動の自由」を語り合おう。